めも

エッセイよりは酷い殴り書き

怒りのツイート

怒りのままツイートみたいに一気に書く、例えば、反政権って言葉があるけど、私の認識は政府が悪をしているから反対するんじゃなくて、当たり前だけどどちらも正しいってことがあって、どちらも譲れないことがあって、それで選ばれた人が調整するわけだけど、じゃあ選ばれた人が決めたから正しいかって言うとそういうわけじゃなくて、やっぱり私の正しさは譲れないよねって話だと思うんです、そういう意味では実際に悪いか悪くないかって全然関係なくて、むしろそれこそどうでもいいことでフェイクだと思うんですよね、我々はそんなことを見抜けるほど優秀じゃないしもっと別の何かに騙されているかもしれないわけで、そういう意味で例えばマヒトのエネルギーには敬意を感じるけど全然あの東京はフェイクだと思う、余計な言葉がすべてを台無しにしている、別にダーティな顔なんてどこにもいないと思う、いやいるのかもしれないけどそれもどっちでもいいよねって話で、それがあるせいで私には東京の歌に聴こえなくなってしまう、政治の歌じゃないぜ、いや政治の歌だと思う、思ってしまう、

これは私が正しい、で、同時にマヒトにとってはマヒトが正しいんだと思う、で、それは両立していてそれはそれでいいと思う、別に私がそれでこのエネルギーを私の歌じゃないって感じて、おなじ好きな人の笑う顔、いいな、最高、愛してるぜ、それが見えてるのに、私の歌じゃないと思ってしまっても、それは別にだいじょうぶだと思う、しょうがないことだと思う、あなたは正しい、だけどやっぱり私だって正しい、本当にいいことを言ってる、神、脱線したね、それはだいじょうぶなんだよ、あくまで私の歌じゃないだけ、誰も死なない、何も死なない、から、これは前置きね、だから私なりの政治の話じゃないことをする、

正しさは両立するし、両立したまま矛盾してていい、でも、何かが死ぬ場合は違うよね、私は、私はだけど違うと思う、正しいが2個あるとき、3個あるとき、4個あるとき、いや、いつも100個とか100万個とかあるけど、その時に、どっちに立つのかって話だと思うんです、どっちかに立たなきゃいけないときはあるし、もし立ったらちゃんと怒らなきゃいけない、

その正しいが、どっちも正しいよね、うん、わかるわかる、大切にしたいよね、誰も悪くないよね、って思っても良くて、自分が、そうだよね、これとこれが正しい、って選んだ例えば2つ、2つの正しさが両立せず相反するものだったとしても、どっちも選んでいいし、違う自分がいていいんだけど、どっちに立つか、それはちゃんとしなくちゃいけないと思う、この死ぬっていうのは命の話じゃなくて、命もなんだけど、なにか、気持ちとか、大事にしてることとか、なくなった時に、ああ死んだな、ってなっちゃうような心のこととか、そういうね、

で、どこに立つかって話で、これは当てはまらない人もいると思うから、当てはまる人に向けてしか話さないんですけど、芸術に救われたり、生かされたり、生活の中に宿したり、特に受け手、芸術を享受している人、愛しているけど、基本的に普段は責任を負ってない人、は、絶対にそっちに立つべでしょ、それが唯一の責任じゃんか、いや、責任だからやれっていうんじゃなくて、なんかもう、うまくいえないんだけど、

芸術なんて、簡単にいらない方に分別されちゃうわけじゃんか、そんなことないのに、そんなことないっていうのは私の見方で、繰り返しになるけど、他の人の正しさではそれよりも大切なことがあるからいらない方に置かざるをえなくて、それも正しいけど、それは私たちには正しくない、最初に反政権っていったけど、それは公と例えば芸術(もちろんここには色んなものが代入できるけど)が対立したとき、絶対に芸術にたつべきってことで、別に嫌いなものとか間違ってるものを断罪するとか、強いものを殴りつけるためのものじゃないと思うんだよな、それとそれはものすごく似ているけどぜんぜん違う、話を戻します、

作り手には責任がある、だから私達より芸術を愛していたとしても、芸術に立てないことがある、芸術を愛していても、理知的な判断が求められるときもあるし、商業なら尚更、安全や信頼は大切にするべきだし、その全部が正しくて何も間違っていない、芸術に立ってそっちが大切だっていうのは1人称になってしまうし、それをやさしさと、軽く笑えるユーモアで乗り越えてるのはまじ本当に素晴らしいと思うし、正しい、けどじゃあ尚更受け手は絶対にそれに甘えちゃいけないきがする、いけない、ユーモアでほっとして、優しい気持ちになって、「しょうがないよねー」とかヘラヘラするべきじゃない、それがその人の正しさの人はいいんだよ、でもさ、あー伝われ、いらない方に分別する、その逆でいて、なんにもしょうがなくない、なにがしょうがないんだ、本当にしょうがないことがあるか?しょうがないよね、ってなってしまう状況は絶対に存在している、いらない方に分別しなきゃいけない選択を強いられるときもある、でもそれは本当に今?その程度なの、ちゃんと考えて喋っている?適当に話すな、つけこまれるな、怒れ、搾取されるな、なんでいちばん大事なそれを簡単に搾取されるんだ、ヘラヘラするなよ、慰めに向けるのではない作り手にむける「しょうがないですよね!この状況じゃ」ってそれはエールじゃなくてお前も滅ぼす側だとおもう、

いつもは芸術の側に立ってますよー、芸術って呼び方をしてなかったとしても、作り手からの愛を散々享受して、ニヤニヤしてるやつが、なんかちょっとグラッとすることが起きただけで、それに誇りがある場合はいいですけど(いちいち注釈を入れなきゃいけないのがめんどくさい)、簡単に芸術じゃない公とか、いや公じゃなくて安全だったり規律だったりもするんですけど、簡単にそういう方に巻かれて、流されて、それは絶対に違うじゃんか、どこに立っている?となってしまいます、別にこれは今回の話だけじゃなくて、この前のお笑い芸人のあのこととか、正しさはたくさんあるけど、そのときだって普段の立ち位置をぽーんとほうり出す人がいて、

めんどくさくなったから、まとめて雑に話すと、で、今回は芸術の側に立ってないひとがその人の正しさで安易に指針を出して、その結果、いろんな事が起こっている、この行為自体を愚かだって言うつもりはない、でも私は愚かだと思う、正しいことだと思う、でも私にとっては正しくない、本当に愚か、ヘラヘラしてるひともおなじくらい愚か、そういう意味で反権力であれよとも思うしどこに立ってるの?と思う、続きはまた書くかもしれないし書かないかもしれない

 

メモ

生きてる、仕事、やること諸々に対する意味、執着など羅列

なんか冷静に整理すれば元気出るような気がした

 

 

・結婚したい

結婚したい。子どもも持てずに死ねない。*1孫を見せたい気持ちもある。

 

・親より先に死ねない

親不孝は考える。それはしちゃいけないと思う

 

・映画を撮ってない

映画くらい撮ってから死にたい

 

・幼馴染

幼馴染が頑張ってる間は負けない、いや負けても良いんだけどでも最低限の誇りは持ったままでいたい

 

・舞台をやってる友達

そこに対してコンプレックスをもちたくない。笑顔で応援したい。唯一の私のプライドかもしれない

 

・友達のしゅんくん

彼にもらってる恩が多すぎて返すまではリタイヤしちゃいけないような気がする

 

・推し

推しが居るってことは執着だと思う これも負けたくないみたいな気持ちはある

 

満島ひかり

彼女と同じ時代に行きているのだから見届けたい。あわよくば一生の内で一緒に仕事をしてみたい

 

とりあえずこんな感じ、思いついたら追加

*1:養子でもいいし結婚して子どもを持たない選択をすることも含めて

日記

2年くらい前に、派遣のバイトをしていた。

はじめたきっかけは、極めて単純。とにかくお金がなかった。レギュラーで勤めていたバイトはブラックすぎてお給料をくれなかった。仕方なく他のバイトを探したりしていたけど、自分がこんなどたどたしてしまう人間、ってことをその時の私は今の私みたいに受け入れきれてなかったから、あわない接客業や飲食のアルバイトをして、メンタルもつぶれかかっていた。持病にもずきずききた。だから、お金をくれないレギュラーのバイトのほうが全然良いと思ってた。(このあたり頭働いていない)

派遣のバイトは、期間限定のもので、毎晩東京駅近くのオフィスビル?で送られてくる書類をまとめたり、整理したり、発送したりする仕事。期間限定って銘打って募集していたから、色んな人がいた。派遣によくいる百戦錬磨のおじさんみたいな人は勿論、私みたいな大学生もいたし、主婦の人や謎の雰囲気醸し出しているお姉さんとかもいた。だから、テキパキこなせる人もいたけど、私みたいなどたどたしちゃう人も結構いて、なんとかやれた。そして何より、派遣にしてはそこそこ良い給料がちゃんと出た。お金。

貧すれば鈍すを私はその時の経験から結構信じている。私は実家に住んでたからそんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど(衣食住はあるからね)例えば、ちょっと喫茶店でも、とか、ちょっと飲みにでも、が本当出来なかった。喫茶店の珈琲の値段見て倒れるほどにはお金がなかった。あと、やりたいことがあった。私は何故か全く興味のない分野を大学で学んでいたから、やりたいことにちゃんとむかえてないと死んでるのと同じだった。他になにもなかったし。

でも結局、夜働いて、朝大学行って夕方から夜まで飲食店やらで働いて、また夜中働いてって繰り返してたから、結局やりたいことはなにもできなかったのだけど。
ともかく、そんなこんなですべてがだめだめで、メンタル死んでて、眠くて、やりたいことできなくて、もうどうしようもないな、って気持ちで、派遣のバイトをしていた。

でもそうすると、面白いことに人は勝手に幸せを見つける。というか、めっちゃいっぱいごろごろ転がっていた幸福なことにどんどん気づいていく。びっくりする、本当だよ。はじめは逃避から入るのかもだけど、でもそうなんだ。
何かのって訳じゃなくて、やっぱり私は気質がおたくみたいで、最初に見つけたのはツイッターでだった。ツイッターは現実じゃない、みたいに言う人いるけれど、私は少しだけ違うと思う。あれは、沢山の現実で生きている人たちが少しずつ積み重ねた言葉が集まって、ちょっと不思議なものを作ってる世界だと思う。だいじなことは、その先にいる人がみんな生きている人間だっていうこと。それぞれの生活が、ことばの先にあるということ。
そんなの、とても当たり前でとても常識な事実なんだけど、私はそのことをわかっていたけど、わかっていなかった。そして、その時わかったんだと思う。
例えばその時、私が好きな歌手を好きな人をはじめてフォローした頃だったんだけど(言い方がわかりにくいけど、私にとって大事な言い回し)その人は、その人の夢(?)というかやりたいことに向かって全力で、まっすぐ向かっていて、その時やりたいことがあったのに全然うまくむかえなくてだめだめだった私は、それに勇気をもらって、勤務の合間に泣きそうな顔してツイッター見ながら、私もこんなんで負けない負けない負けないってなって働いていた。相手にとってはなにも関係がなくても、自分の心の沢山に存在する人がいるのは、おかしなことではないのだと思った。

いや、別に暗い話をしようと思って書き始めたわけではないの。ここまでが前振りみたいなもの。なのかな。
そんな風に元気をもらうと、世界に色がつく。みんなそれぞれの生活が、ものすごく愛おしくなる。遅刻して、いらついたつぶやきをしている人をみたときは、それまでだったら私もイライラしちゃってたかもだけど、その人の色々が見えてくるから、がんばれ、負けるな、いいことあれ!ってなる。ツイッターは、それの蓄積でできている。

そうすると、あるいている東京駅の風景が変わる。無機質だった人混みが変わる。歩いている人ひとりひとりの生活が、一瞬が、なんとなく見えてくる。コンビニのレジの人の人生のほんのひとかけらだけど、見える。もう生きてて関係ないものなんてほとんどなかった。

そうするとほんの少しだけ余裕が出てくる。相変わらずだめだめでお金はないけど、働きに向かう電車の中や、休憩時間に文庫本が読めるようになる。
そうすると、派遣先のおじさんが「なに読んでるんですか?」なんて話しかけてくる。そうすると、どうでもいい数々の愛おしいことを話す。おじさんは株をやっていること(あやしい!)。おじさんの好きな作家は折原一だってこと。(読もう読もうと思ってまだ読んでない。美味しいラーメン屋さんのこと。
私の同じ名字のお姉さんは、仕事を辞めてとりあえず働きに来ていること。とりあえずリハビリを兼ねて働いているんだということ。うまく人とやっていけるか不安なこと。(でも、とても素敵な笑顔だったのでだいじょうぶと思った私)
エレベーターの前ですれ違う人は、変な会釈の仕方をするということ。だけどみんなにめっちゃ気を遣っている優しい人なんだってこと。
メガネの大学生は山梨から出てきて、浦安に住んでいること。ニトリのバイトは時給がいいから、本当は夜勤じゃなくてもいいんだけど、もっと働きたいんだってこと。怖い顔のおばさんは、愛想が悪いだけで、めっちゃ仕事の手際がいいということ。関西弁のおばちゃんの息子は、私と同い年だということ。

派遣のバイトが終わるとき、私はなんだか悲しくなってしまった。退屈で疲れるお仕事だった。でも私はこの人たちともう二度と会うことはないんだろう。もう会っても顔もわからない。最後の日に夜勤明けに一緒にラーメンを食べに行った大学生たち。LINEは交換しなかった。


そこから徐々に、元気になったり、喫茶店に行くくらいのお金は手に入るようになったりしながら生活を続けている。ブラックバイトのお給料は結局入らなかつたけど、あの上司は生きていればいいなと思う。やりたいことはやったり、猛烈に挫折したりしながら、なんとなくまだかじりついている。久々の友達から連絡が来た。夢に向かっていたツイッターの人は変わらず一生懸命で、あなたの夢が叶いますようにと思う。その人の友達とも知り合った。気高くてかっこいいので憧れ続けている。ツイッターでは、風向きかなんだか多くの人と会うようになった。今まで会ったことのないような人に知り合ったおかげで、どたどたな自分があんまり気にならなくなっている。

坂本真綾の音楽を聴く。
"きみの哲学に触れたとき いちばん好きな自分になる" 本当にそうだな、と思った。人と話していたり、この人がこんな考えをしていて、こんな風な人で、知らないどこかを生きてきたんだな、とちょっとでも感じられたとき、私はとても幸福になる。そこにいる人々にとってはわからないようなとるにたらないことかもしれないけれど、私の幸福は私が決める。幸福は私が気づかないだけで街や生活のすみずみに隠れている。それは私にとってものすごく大きいことで、とても大切にしていきたいな、ともっと見つけたいな、と秋の終わり、普段は歩かない雨の中を歩きながら、そんなことを考えていた。

メモ

・個人的な備忘録、神様についてのメモ あるいは創作のために

・宗教と神は違う

キリスト教的な一神教の神を想像するからおかしくなる

・とはいえ別にそれであっても構わない

・例示 何故我々は生まれたのだろう

・かつては説明に神を用いたが

・今は科学でシステムが説明できる

・とはいえでは何故そのシステムは存在するのか?

・リンゴが落ちるのは万有引力のせい?

・では何故万有引力は存在するのか?

・言葉を発する

・辛辣な言葉を発する

・ひどい言葉をぶつける

・それは傷となり彼の重荷となる

・彼は飛行機をつくる

・ダイナマイトをつくる

核兵器をつくる

オートミールをつくる

・畑をつくる

・畑をたがやす

・そうして言葉は都市となり積み重なり宇宙になる

 ・というシステム

・右に曲がると左には曲がれないというシステム

・選択には対価がある

・という法則

・神話

・不完全な神話

・アダムとイヴ

・世の中のシステムが未だわからない段階で集められた知恵

・それは同じものだが違う

・法則と発展

・知恵の更新

・神の更新

・最新のダイエット方法

・スポーツ選手の食事

・私は右手を宙にあげる

・それは何故?意思?

・では何故そこに意思があるか

・それをなんと呼ぶか

・物事に名前をつけた人

・物事に名前をつけた人によって構成された私の自我

・文字

スマートフォン

・右手

・恋

・朝日

日記

久々に友人とあって飲みに行こう!となった。そうしたらやりたいことまだまだあるとなってリストにした。
・飲みに行く
・鍋をする
・ストリップ劇場に行く
・台湾に行く
・スカイダイビングに行く

この中だとスカイダイビングは断トツで怖い。まず私は高所恐怖症なのだから、べらぼうに怖い。もし失敗したら死んでしまうかもしれない。
ただ車にひかれて死ぬ、電車に激突して死ぬ、薬に狂って死ぬ、暴走した初号機に殺される、などよりは空から落ちていって死ぬほうが幸福な死かもしれない。そんな風に思ったら、「そういうのって、パラシュートとかが開かなくて、恐ろしい思いをして死ぬんじゃないの?」と言われた。では、スキューバダイビングにしてみようかと考えたが、こちらもおそらく窒息死なのでタチが悪そうだ。
他に良さげな死に方が出来るダイビングもなさそうなので、どのような死に方が良いのか考えてみた。流石に老衰や安楽死というのは芸がない。
私は死ぬなら、概念になって死にたい。気づいたらふっとそうなっているような感じで、概念になって死にたい。概念になって死ぬのなら贅沢は言わないけれど、例えば閉塞感などになって死にたい。
「悲しいお知らせです。◯◯君が概念になってしまい亡くなりました。今はとても辛いですが、◯◯君の分まで、体育祭の長縄を頑張って、優勝しましょう。」
先生がこう告げると、皆は変わったように練習を始めた。回数が61回、63回と少しづつだが増えていく。誰も◯◯のことは言わなかったが、彼が概念になって死んだことが原動力の一つになっていることは間違いなかった。
「61…62…63……64……」
今までの最高記録を越えても、誰もドキドキしたり、そこで満足したりはしなかった。心なしか、縄を回す手が早くなる。
「94……95……96……97……96!」
96回。断トツで最高記録だ。皆は少しだけ満足気味で、これで2組にも3組にも勝ち、優勝出来るようなかもしれない。わずかに安堵感が漂った。
しかし、現実はそう簡単ではない。本番に近づくにつれ、最高記録どころか、今まで普通に跳べていた50回すら跳べないことが増え、20回程度で掛かることも多くなった。プレッシャーからか、暗いムードになっていた。2組のベストも90回を越えたらしい。そうやって最後の幾日かを無駄に費やし、とうとう調子を戻せないまま、本番を迎えた。
本番。どんよりとしたムードはそのままだった。このまま跳ぶのか……。なんとか調子を戻す方法はないものか……。そう感じていたとき、急に1人が呟いた。
「◯◯だ……!◯◯がいる!」
皆は辺りを見た。そして次々に口に出した。
「本当だ◯◯だ!」「おい◯◯、ここにいたのか!」「いつの間にいたんだ、◯◯!」
本番に向かうその前、焦り、不安、そして間違いなくそこには閉塞感があった。彼らは◯◯のために跳ぶことによって、自然とそこに◯◯を呼び出していたのだ。
「よし、◯◯。一緒に跳ぼう」
おう、という返事が聞こえたかどうかはわからない。代わりにパン、というピストルの音が聞こえた。そして隣のクラスの「イーチ、ニィー」という声が聞こえた。
××は大きくうなづくと、縄跳びを回し始めた。「イーチ、ニィー……」
それは昨日までの練習とは明らかに違うものだった。◯◯を見つけた1組の皆は、数を意識することなく跳び続けた。
もう一度パン、と終わりの空砲がなった。結局最後まで一度もひっかかることはなかった。皆が戦った表情をしていた。
「1組、348回。優勝、1組!」
皆が跳びはねて喜んだ。抱き合った。それは学校新記録でもあった。拍手の音が鳴る。泣いているものもいた。348回を跳びきった達成感に溢れていた。だが、誰かが気付いて声をあげた。
「◯◯だ!◯◯がいない!」
跳ぶ前は明らかにそこにいた。跳ぶ瞬間まで明らかに一緒にいたのだ。しかし、真剣に一回一回跳ぶごとに今まで感じていた閉塞感は明らかに消え去っていった。もうそこには、◯◯はいない。喜びが悲痛な声に変わった。そしてまたもうひとつ、叫び声があがった。
「おい、待て。××もいないぞ!!」

✳︎

優勝トロフィーを持ちながら、先生は言った。
「悲しいお知らせです。××君が概念になってしまい亡くなりました。◯◯くんに続き残念ですが、××君のためにも残りの学校生活を悔いなく過ごしましょう。」
それに笑うものはいなかった。失望感が漂いはじめた。その瞬間、教室に再び異変が走った。そして、誰かがこう言った。
「先生、今度は△△がいません!!」

キャスト
先生 - 先生
閉塞感 - ◯◯
達成感 - ××
失望感 - △△
生徒 - エキストラのみなさん
と、なりかねないので、果たして概念になって死ぬのも幸福かはわからないけれども。どういう死に方なら幸せに死ねるのだろうか。


日記

大学の研究で若者論などの本を読みあさっている。若者論のブームは過ぎても、そしてまだ若者論は続く。
近頃はまた、ある種「ゆとり世代」と言われる若者たちに共通して流れる何か眼に見えないものを、とらえようとしている研究も多いのかもしれない。
どうやら若者たちの間では、何か具体的なものに対するはっきりとした問題より、まるで芥川龍之介が云ったような「ぼんやりとした不安」を感じている人が多いのだという。
幾つまでを若者と呼ぶか、果たして自分は知らないが、きっと私の左右の足のどちらかくらいは、まだとっぷりと若者というものに浸かっている。同時に、その「ぼんやりとした不安」というものを感じていたりもする。それは、なんとなく世代に共通に流れる空気のようなものにも思えなくもない。
人は、いつかは大人になる。いつまで経っても気持ちは子供のまんまだとしても、必ず若さを失ってゆく。歳をとってゆく。幾ら若者の定義が拡大していると言っても、40を迎えてもなお「若者」ということはないだろう。
自分も、いつかは若者なんて言えなくなる。いやむしろ、もしかしたらもう言えないのかもしれない。ただ、なんとなく、20を少し超えたばかりのこの時に、まだ自らの若さをなんとなく感じるこの時に、この「ぼんやりとした不安」について、なんとなく口に出してみようと思った。言葉にまとめてみようと思った。自分のそれが、果たして若者として一般性を持つかはわからないが、あるいは若者論のいうところの「ぼんやりとした不安」に、本当に該当するかわからないが、記してみたいと思う。だからこれは、自分自身の文章であるということに意味をもたない。そうではないか。ただこれは日記なのだけれど、でもこれは例えばあと10年経った時に、もしくはもっと経った時に、「22歳の頃はこんな風なぼんやりとした感覚を感じていたな」と振り返るためのものだ。あるいは、この時に、こんな風に考える若者がいたということを書くにすぎない。

大学3年の7月、何を選択するにも「将来」「未来」というものがちらつく。それは決して重大な問題ではなく、いや時に重大な場合もあるのだけれど、どうせなら、考えておいたほうが良いかな〜、程度の軽い気持ちである。
サークル活動に勤しむ時「どうせなら面接で話せるようにしたいな」ゼミの研究テーマを選ぶとき「どうせなら自分の問題意識と強く結びついたほうがいいな」飲みに行くとき「今のうちにこの人には会っておこう」遊びを決めるとき「旅行に行くなら今だな」
人は感覚で生きていくタイプと、理屈で生きていくタイプがいるという。自分が感覚的だと思うときも理屈っぽいなと思う時もあったが、最近思うのは、自分は極端に行動力がないということ。それ故、物事は感覚で判断するけど、それを自分の中で理屈で裏付けて初めて、行動できるということ。
何をするにもなんとなく「将来」平たく言うと「就職活動」につながっている今、自分は自分自身がなんとなく「やりたい」と思うことの裏付けや理由づけを探していた。
「やりたい」と思えることをやりたいのは何故だろう、とか、それを捨てて安定したものを選んだほうが良いのか、とか悩んでいる時、自分の思考は「幸せってなんだろう」「人生で為すべきことはなんだろう」というところまで迷い込んでいた。
なんとなく、生まれたからには社会に貢献したかった。と言っても「人の命を救いたい」とか「積極的にボランティアをしたい」ということではなくて、何かの役に立ちたい、くらいのぼんやりとしたものだった。
それは決して正義感とか、そういうすてきなものによってのことではなくて、むしろ自分自身の人生に、誇りを持ちたいということによってのことなんだと思う。
自分は何も成功したことはない。学歴もないし、履歴書の資格に胸を張ってかけるものもない。相手もそう思ってくれるような大親友がいる自信もないし、部活一つとっても、最後まで続いたことがない。花をいれる花瓶もないし、嫌じゃないしかっこつかないし。
だけど、少なくとも自分の人生はこれまで、決して不幸ではなかった。毎日不自由なく食べてこられた。大学まで通えた。気づいてないだけかもしれないけど、誰かに凄く嫌われたり憎まれたりしないで生きてこられた。
そういう環境的なものは別にしても、幸せだった。なぜかというと、20年少し生きてきて、嫌な人にほとんど出会わなかった。今まで忘れてしまった人のほうが多いのかもしれないけど、出会った人はみんなとてもいい人だった。すてきな人ばかりで、少し考えるだけで胸がいっぱいになってしまうような人ばかりな気がする。そういう人たちから、色んなことを教えてもらった。それは言葉だったり、生き方だったり、考え方だったり、単純に素敵な時間だったり。もっとこう、言葉にできない何かだったり。あるいは、音楽や、映画や、物語だったり。色んな人から、色んな素敵なものをもらって生きてきた。
そういうものに触れ合って、受け取って、積み重ねて、自分は自分自身を作っている。自分自身の価値観を、考えを更新し続けている。例えば単純なことでも、友達の頑張る姿と考え方を見て、触発されて自分も変わったり。自分のことは好きではないけれど、そうやって作ってきた考え方とか、ものの見方にはほんの少し、誇りを持っている。
資格も、技術も、才能も、残念なことに持ち合わせていないけれど、唯一、私はこうやって私自身が生きてきた時間を持っている。出会ったひとが作ってくれた歴史を持っている。それは勝手に、自分の中で一つのプライドになっている。
そうやって私の中にある時間は、きっと自分にしか出来ない何かを作ってくれている。きっと私の人生でしか言えない言葉や考え方がある。仕事がある。いや、それが他の誰かにも出来ることだってきっといいのだ。ただ、せっかく自分が貰ったきたなにかを、社会に還元したいのだ。生きてきて、せっかく自分が受け取った素敵なものを、ただ自分の中に抱えて死んでいくのはあまりにもかなしいし、勿体無いとおもう。素敵な誰かが自分にしてくれたように、同じように何かの役に立ちたかった。
それは社会そのものに対してでも良かったし、もっと小さく誰か一人のためだけでも良かった。ともかく誰かを今より幸せにするためにつかいたかった。
社会に対してなら、それが成し得る仕事に就きたかった。何の仕事をしても、少なからずそれは実現できるのだろう。でも、ほんの少しでも無駄にしたくなかった。ましてや、一生かけて従事するかもしれない仕事ならなおさらである。そこでも素敵な出会いをして、それも伝えていけたらなおのこといい。仕事をして、お金を貰うことも大事。でもそれは社会貢献に対する対価だと思っている。社会貢献はなにをしてでも成し得るのかもしれないが、出来ればその誇りをそれに活かしたかった。自分が精一杯仕事をすることで、誰かを幸せにできることがとても大事な気がしていた。でもそこに辿り着く道が見えずにいた。
それから、なんとなく自分は自分自身に対して、突き動かすものがないような気がしていた。なんとなくなりたい何かはあった。自分が今まで出会った誰かのように、もっと素敵になりたかった。けれど、ここまで生きてきて出会った人とか、なった自分になんとなく満足はしているし、お金や家、車や地位、素敵な家具、好きな小説を読むための時間などはあったほうがいい、とは思うけれど、別に絶対必要なものじゃない。少なくとも、自分自身がそれを得るためにまっすぐ進むためには、なんとなく今が足りている。欲しいものはいくらでもあるけど、欲望に突き動かされるのはもっと嫌だった。自分のために成し得たいことはないような気さえした。なんとなく、楽なほうへ楽なほうへ流れていくような気がしていた。
もしも、この人しかいない、というような取り替えられない人に出会えて、なんとなく自分もそう思ってもらえて、その人の幸せのために生きていけたらどれほど素敵なことだろう、なんて考えていた。そうすると自分の考えることは急に変わる。仕事なんてなんでもいいし、お金なんてもらえるだけ欲しい。今まで受け取ってきたすてきなものがもしあるのなら、それは仕事でもなくてその誰かをしあわせにするためにつかう。誰か一人のしあわせためだけに、自分の何かをつかえること以上のしあわせもまた、ない。けらけら笑って楽しそうな誰かを想像できるなら、欲望に突き動かされるのはとても素敵なことに思える。
けれど、今まで生きてきて決して取り替えられない人に多分、出会っていないし、長く関係が続いた人もいない。とてもとても素敵だな、と思う人はいても、そういう人ほど気づかないうちにさよならすることを私は知っている。放り投げられたように取り替えられない人が現れるんじゃなくて、少しづつ、お話したり泣いたり笑ったりする中でそうなっていくこともわかっている。でもそうやって他人と触れ合う前に、こそこそっと逃げ出してしまう自分がいるなんてこともどこかで思っている。特別な何かになれなくても、素敵な人は自分の人生には沢山いて、その人を少しでも元気にしたいって気持ちもなくはないけど、それはなんだか傲慢で寂しくなる。素敵な人とはこれが最後だって知らないまま「また来月あたり飲みましょうね」とかいうのが今生の別れになるかもしれないなんて思っている。運よく仲良くなって特別になっても、その大体はさよならだってなんとなく感じている。
きっと自分は、幸せって何なのかだってなんとなくわかっている。それがひとつじゃないことも、手に入れる方法さえもひとつじゃないこともわかっている。だけどそれがどうしても手に入らないんじゃないかって気もちになって、でもそれでもそれなりに生きていけることもわかっていながら、でもなんとなく「ぼんやりとした不安」を抱えている。というより途方に暮れている。未来はニュースが言うよりも真っ暗じゃない気がしているけれど、思い描くようなものじゃないものは嫌で駄々をこねている。七夕のお願いのつもりでないものねだりをしている。




日記

人は忘れる。よっぽどのことがない限り、自分の名前や通った小学校、机を机と呼ぶという事実、初恋の人に振られてしまったことなどは忘れないけれど、微妙なニュアンスやディティールは忘れてしまう。もし、あなたが小説家なら、湯船であんなにも楽しくかけると思った物語は、パソコンに向かった途端どうでもいい凡庸なものへと変わるだろう。

本を読むということ、調べ物をするということ、研究をするということなどは忘れるということの繰り返しだと最近思う。本を積み上げて上から順に読み進めていると自分の中の何かが、それに呼ばれてふっと輝く気がする。ただ、そこで決して続きに進んではいけない。続きに進んでしまうと、満たされるのは知的好奇心という耳障りの良いものだけで、何について気づいたのか何がどうなると思ったのか見当がつかなくなってしまうだろう。だからといって、その場ですぐメモなどをとったとしても、もはや手遅れである場合もあるし、それを読み終わり見返してもただと文字の並びにしか見えない場合もある。

忘れるということは、どうでもよくなることだ。「たまねぎ・醤油・もやし・たまご6個・梨・ベーコン 忘れちゃ駄目よ」とメモに書き、そのメモがどこかに消えてなくなっても、うっかり袋を開けてみたらベーコンがない、という事実がなければいいわけである。

しっかりメモを握りしめて、僕たちは歩いているけど、たまにそんなことは途端にどうでも良くなってしまう。野菜売り場を奥に行ったところのちくわのところまでは辿り着いたのに、その先に行こうとすると何もかも面倒になって、いいや、玉ねぎにひき肉で何かを作ろう、あるいは、駅前のラーメン屋でいっぱい引っ掛けて帰ろうか。すっかりあたりが暗くなって、ああこんなに飲むなら普通に、居酒屋に行くかそれこそ、もう少し奥に行って、ビールを買って帰ればよかったなぁなんて思ったりもして、だけどなんとなく星なんか見えるもんだから鼻歌なんて歌い、あれ?この歌サビの部分しかわからない。ふとポケットに手を入れてみると「ベーコン 忘れちゃ駄目よ」丸めてポイと投げる。入った。

 

「人は皆忘れる」というが、それは言い換えると人は皆どうでもよくなる、ということなのだと思う。お前は嫌いだ駄目だ死ねよと罵り合って、死ねなんて言ってしまった、と言葉の力が首を締め付ける。家に帰るとそんな時に限って借りていた本が転がっている、そこまではなくても「一生口なんかきくものか」などと考えていたのが翌朝、顔を合わせた途端なんだか色々がとてもちっぽけなことに思えて、口を開こうとした瞬間「ごめんね」なんて聞こえる。そうするとなんで怒っていたのかなんてもうわからなくなる。考えてみれば、恐竜の絶滅の理由が隕石であろうが、火山の活動であろうが、タイムマシンだろうが、そんなこと毎日の生活には何の関係もないのだ。

忘れるというのは悲しいことだ。初めて出来た恋人と待ち合わせて見つからないように歩いた帰り道。部活終わりに歩道橋の上を歩いていたら、夕焼けがとても綺麗だったこと。今はセリフを覚えている映画を初めてみたこと。羅列しようと思えばいくらでも書ける、けれども、それがどんな感じだったか、どんな気持ちだったか覚えてる?うれしい?かなしい?

心が崩れてしまいそうなとき支えてくれた言葉とか、大好きなんて言われて幸せだって思うこと、もしくは負けて負けて駄目で駄目で歯を食いしばって見返えそうだなんて決意したり、あんまり関係ないけど、あのときのカレーライスの味やら、絶対忘れたくない!と思うことはたくさんあったはずなのに、時々忘れてしまった事に気づいて、なにかしら思い出そうとしてみたり。なにかを手がかりに頑張ってみることもあるし、うーんと悩み続けることだってあるだろう。大抵はその1割でも思い出せた気になれば大成功で、思い出せないことに愕然とする。もう少し元気でいられるなら、中学2年生の時に好きだった歌が響かなくなって、おとなになったんだな、と少し寂しくおもうだけだ。

それでも、悲しいと思うのは仕方のないことで、人間の頭はそういう風にできている。大きなショックを和らげなければ自殺してしまうかもしれないし、一目惚れしたままだったらじきに、血液が体に回りすぎてしまうだろう。本当に悲しいのは何かを忘れて、あ、どうでもいいや、などと思ってしまうことなのかもしれない。

自分は不幸な人生を送ってはいないし、例えば中学高校生時代なんか普通に友達もいたはずだ。ああ、死んでもいい!と思うような幸福な瞬間だって、何度かあったはずだ。それが100万円(正確には、ひゃくまんえん)拾ったとか、結婚したとか、行きたかった学校に合格したとかそういうことではなくたって、自分は自分なりの精一杯の幸せを感じた瞬間があったはずだし、友達みんな大好きだなんて、結構お花畑様なことを叫びだしたくなって踊りたくなった瞬間だってなかったとは言い切れない。

自分がもし明日消えてなくなるとしたら、誰に何を伝えるのだろう。何かにこんなふうに問われて考えてはみるけれど、なんだか伝えるべきひとが誰一人いないような気がしてくる。家族?恋人?なにか言うべきことはあるのか。友達の顔を思い浮かべるけど、あれ?例えばこの22年何を積み上げて、誰にもらったどんな言葉で嬉しいと思ったんだっけ。ふと携帯など開いてみると、飲みに行こうなどと連絡が入っていたり、あるいは、適当に飲みに行きません?と送ってみたりするわけで、そんなこと考えていても仕方がない、なんて結論になる。なにか大事だなといつかの自分が思った事を忘れてしまっているけど、実際は別に特に思うところがあるわけではない。昔過ぎたり、今見ると漠然としていたりして、わからない。

そもそも、自分はこれを何を書こう、と思い書き始めたのだろうか。気分転換だっただろうか。大体、自分は文字を書くのが苦手だし冒頭からここまで休み休み思い出しながら、もしくは本を読みながら書いたものだから優に2時間は経ってしまっている。そうすると書き始めたときの気持ちなんて当たり前のように忘れている。最初は幸せについて書きたかった気がする。お金を稼いだら幸せなのか、やりたいことをやっていたら幸せなのか、思う存分眠れたら幸せなのか。結局、やさしくなりたいってことを思って書き始めた気がする。今の気持ちで書いても、思いついた気持ちよりよっぽど言葉が軽くなっている。

「麦畑/二人の女の子/一人が奥へ進む/一人が『はやく』という/もう一人は『待って』といってかき分けて背を追う/ひとり、声をかけられるが止まることなく奥へとすすむ」という一枚のメモ。高校のときのノートの隙間から出てきたのかもしれない。急いで書いたようで走り書きである。さっと目を通し、なるほど、きっと当時の自分はこんなことを考えていたんだな、と微笑ましくなりもう1度読んでみてさて、何を書きたかったんだろうと考えるが、分からないのでローソンのレシートやら、日高屋のレシートやらと一緒に丸めてゴミ箱へ捨てる。そろそろ昼食でも作ろうかと思い冷蔵庫を見るがほうれん草くらいしかない、何かを買ってくるか。昨日は何を食べたっけな、そういえば、昨日結局何も買わずに帰ったんだった。ほうれん草で何しようとしてたんだっけ、まぁいいか。どうでもいい。「ベーコン 忘れちゃ駄目よ」

いろんなことに追われていると、自分がなにをしていいかわからなくなる。何かのためと思っているものがただ唯一、その場の快楽のためなんてことは良くある話で。気づいたら誕生日がすぎるのは漫画の中だけの話としても、ふと時間が出来ると自分と向き合いたくなる。何のため?それはどんな人も多分、少しでも幸せになるため、じゃあ、自分にとって何をすれば幸せなんだろう。やさしくなること?あれ?それはなんでだっけ?信じられないことに、日がもう昇っている時間で、鳥が鳴き出している。まだ読まなくてはいけない資料も残っているし、でもとりあえず眠いから、少し仮眠をとることにする。あれ?紙とペンとパソコンと、電気スタンドをのせているこれは、なんというんだっけ?