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日記

私は顔が覚えられない。
一応、見たらこの人だ、ってわかるからきっとどこかでは覚えているのだと思う。正確にいうと顔を思い浮かべることが出来ない。元々頭の中で映像を思い浮かべるのも得意じゃないのだけれど。全部の人が思い浮かばないんじゃなくて、思い浮かべられない人がいる。それは何故だかわからない。忘れているわけではない。映像でもない、文字でもない、きっと言語化出来ない何かの部分でしっかり覚えてはいるのだ。でも、顔は思い浮かばない。
流石に何十回もあっている旧い友達とか、家族とかの顔は忘れない。だけど、沢山あっているから覚えている、少ししか会っていないから覚えられない、そんな単純な話じゃないみたいだ。どうでもいい人が覚えられない、好きじゃないから覚えられない、そういうことでもないみたいだ。何度もあった好きな人間の顔を思い出せない。そんなことがある。むしろ、大好きだな、すてきだな、って人の顔ほど思い浮かべられない気がする。ドキドキして脳みそのほうが覚えてる場合じゃないのかもしれない。誰にも伝わらないと思うけど、パワポケ木村庄之助みたいだ。たまに、とてつもなくせつなくなる。だからこそ、会っている一瞬を愛おしく感じたりもするのだろうけど。

だからこそ、走馬灯の一気に思い出すことがある。
先日、1枚の写真を見た。それは私の友人による、私の友人の写真だった。その写真には友人の横顔が凛として写っていた。
その瞬間、写真に呼び出されるように、一気に色んな感情が溢れ出した。そうだ、こんな顔だった、っていうのは勿論そうだけれど、あ、初めて会ったときはこんな顔をしていたな、とか、その時私はこんな風に思ったんだった、とか、笑うとこの顔がこういう風に変わるんだったとか、それがすごく素敵だなって思ったこととか、映画館でみたのは同じような横顔だったな、とか、そういえば鼻唄を歌っていたな、とか顔のことじゃないことまで。色んな記憶と感情の記憶とかその時の空気とか忘れていた色んなものが一気に入り込んできて、私は思わず泣きそうになってしまった。
君の名は。」を観たけどまさにこんな風なのかと思った。なんで忘れてしまうんだろう。またその写真をみないと正確には思い出せないような気がする。「君の名は。」で「すき」と書いた理由がイマイチ腑に落ちなかったけど、こんなにその人のことを思い出して愛おしく思うならそうなんだろうな、って思った。そしてやっぱり素敵すぎるから、忘れているんだろうな、って思った。

日記

久々に友人とあって飲みに行こう!となった。そうしたらやりたいことまだまだあるとなってリストにした。
・飲みに行く
・鍋をする
・ストリップ劇場に行く
・台湾に行く
・スカイダイビングに行く

この中だとスカイダイビングは断トツで怖い。まず私は高所恐怖症なのだから、べらぼうに怖い。もし失敗したら死んでしまうかもしれない。
ただ車にひかれて死ぬ、電車に激突して死ぬ、薬に狂って死ぬ、暴走した初号機に殺される、などよりは空から落ちていって死ぬほうが幸福な死かもしれない。そんな風に思ったら、「そういうのって、パラシュートとかが開かなくて、恐ろしい思いをして死ぬんじゃないの?」と言われた。では、スキューバダイビングにしてみようかと考えたが、こちらもおそらく窒息死なのでタチが悪そうだ。
他に良さげな死に方が出来るダイビングもなさそうなので、どのような死に方が良いのか考えてみた。流石に老衰や安楽死というのは芸がない。
私は死ぬなら、概念になって死にたい。気づいたらふっとそうなっているような感じで、概念になって死にたい。概念になって死ぬのなら贅沢は言わないけれど、例えば閉塞感などになって死にたい。
「悲しいお知らせです。◯◯君が概念になってしまい亡くなりました。今はとても辛いですが、◯◯君の分まで、体育祭の長縄を頑張って、優勝しましょう。」
先生がこう告げると、皆は変わったように練習を始めた。回数が61回、63回と少しづつだが増えていく。誰も◯◯のことは言わなかったが、彼が概念になって死んだことが原動力の一つになっていることは間違いなかった。
「61…62…63……64……」
今までの最高記録を越えても、誰もドキドキしたり、そこで満足したりはしなかった。心なしか、縄を回す手が早くなる。
「94……95……96……97……96!」
96回。断トツで最高記録だ。皆は少しだけ満足気味で、これで2組にも3組にも勝ち、優勝出来るようなかもしれない。わずかに安堵感が漂った。
しかし、現実はそう簡単ではない。本番に近づくにつれ、最高記録どころか、今まで普通に跳べていた50回すら跳べないことが増え、20回程度で掛かることも多くなった。プレッシャーからか、暗いムードになっていた。2組のベストも90回を越えたらしい。そうやって最後の幾日かを無駄に費やし、とうとう調子を戻せないまま、本番を迎えた。
本番。どんよりとしたムードはそのままだった。このまま跳ぶのか……。なんとか調子を戻す方法はないものか……。そう感じていたとき、急に1人が呟いた。
「◯◯だ……!◯◯がいる!」
皆は辺りを見た。そして次々に口に出した。
「本当だ◯◯だ!」「おい◯◯、ここにいたのか!」「いつの間にいたんだ、◯◯!」
本番に向かうその前、焦り、不安、そして間違いなくそこには閉塞感があった。彼らは◯◯のために跳ぶことによって、自然とそこに◯◯を呼び出していたのだ。
「よし、◯◯。一緒に跳ぼう」
おう、という返事が聞こえたかどうかはわからない。代わりにパン、というピストルの音が聞こえた。そして隣のクラスの「イーチ、ニィー」という声が聞こえた。
××は大きくうなづくと、縄跳びを回し始めた。「イーチ、ニィー……」
それは昨日までの練習とは明らかに違うものだった。◯◯を見つけた1組の皆は、数を意識することなく跳び続けた。
もう一度パン、と終わりの空砲がなった。結局最後まで一度もひっかかることはなかった。皆が戦った表情をしていた。
「1組、348回。優勝、1組!」
皆が跳びはねて喜んだ。抱き合った。それは学校新記録でもあった。拍手の音が鳴る。泣いているものもいた。348回を跳びきった達成感に溢れていた。だが、誰かが気付いて声をあげた。
「◯◯だ!◯◯がいない!」
跳ぶ前は明らかにそこにいた。跳ぶ瞬間まで明らかに一緒にいたのだ。しかし、真剣に一回一回跳ぶごとに今まで感じていた閉塞感は明らかに消え去っていった。もうそこには、◯◯はいない。喜びが悲痛な声に変わった。そしてまたもうひとつ、叫び声があがった。
「おい、待て。××もいないぞ!!」

✳︎

優勝トロフィーを持ちながら、先生は言った。
「悲しいお知らせです。××君が概念になってしまい亡くなりました。◯◯くんに続き残念ですが、××君のためにも残りの学校生活を悔いなく過ごしましょう。」
それに笑うものはいなかった。失望感が漂いはじめた。その瞬間、教室に再び異変が走った。そして、誰かがこう言った。
「先生、今度は△△がいません!!」

キャスト
先生 - 先生
閉塞感 - ◯◯
達成感 - ××
失望感 - △△
生徒 - エキストラのみなさん
と、なりかねないので、果たして概念になって死ぬのも幸福かはわからないけれども。どういう死に方なら幸せに死ねるのだろうか。


日記

夜の街を歩いている。
夜の街は色んな人がいる。
楽しそうに歩く人、悲しそうに歩く人、一人でギラギラと歩く人、赤髪、金髪、刺青、わーわー歩くのは、きっと大学生かな?酔っ払いのお手本みたいなおじさん達。外国人がとても多い。日本人よりも明るい気がする。隣の人も、中国人かな?彼らの子供もいる。夜なのに。
新宿の街を歩いていたら とてもすてきな演奏をしている。大勢のひとがかこんでいる。サックスが鳴っている。あれはベースだろう。夜が終わらないならずっと観ている。
飲み屋の客引きさんが、サックスの後ろで看板を掲げている。飲み放題は1200円らしい。飽きたり、リズムに乗ったりを繰り返す看板。
人は減らない。
刺青の人が熱心にメモを取っている。
皆が楽しそうに笑っている。刺青の人が描いていたのは似顔絵だったらしい。自分も、とてもなんとなくそこに立っている。皆が笑っている。
警察の人がこなかったら、いつまでも鳴っていたかもしれない。笑っていた人たちはおやまぁみたいな顔なんかして、ゆっくりと歩き始めたりしている。
夜の街を歩いている。
夜の街は知らない人がたくさん歩いている。
ちょっと振り返ったりしてみても、なんにも関係なく歩いている。
ぎゃーぎゃー言ってる元気な大学生も、つまらなそうな会話を無理に投げ合っているサラリーマンも、ちょっとお関わりあいになったらお金でも取られそうなお兄さんも、自分はそんなに嫌いじゃない。
特に楽しいことがなくても、それなりにニコニコ歩いていけるくらいには好きだ。

今あったことが前もあったように感じることがあるのは、子供の頃はとても不思議だった。
あ、この人転ぶ、と思ったら転んだりする。今初めて見たものを、とても懐かしく感じる。とてつもなくせつなくなる。でも多分、それはデジャヴとは関係ない。
夢の中でしか会わない人がいる。私は他の人の夢を見れないからそれが普通かどうかはわからない。夢の中でしか会わない人に、2回あったことがある。同じ夢を2回みたわけではなくて、すごい昔に見た夢で会った子に再会した。とてもびっくりした。それもデジャヴなのかな。
はっきりとは思い出せないんだけど、その子と私はとても仲が良くて、ずーっとずーっと前から、例えば幼稚園なんかから、知っていたよう風でとても楽しそうな顔をして歩いていた。
でも、途中で夢の中だってわかって、自分は馬鹿みたいに泣いた。夢の中で泣くのなんて、訳が分からないか、怖いかのどっちかだろうと思っていたのに、私はとても悲しくて泣いた。泣きじゃくりながら何度もさようならを言った。その子は泣かないで、笑っていたような気がするけど覚えていない。起きたら私は本当に泣いていた。

知り合ったばかりの人を、ずーっと前から知っていたような気になる時がある。ずっと大切な人だったような気になる時がある。それは勿論、夢で会った訳じゃないけど。
少しだけ、ない頭で考えていたけど、それは意味不明な懐かしさじゃないと思う。言葉とか考え方とか表情とか手の使い方とか鼻歌とか、それが私にとってとてつもなく素敵に思えて、勝手にずーっと一緒に居たような気になってるんだと思う。勿論、幼稚園を振り返っても小学校を振り返ってもその人はいない。でも、ずっと前から知っているような気がしたりする。
勿論、その人が何を話すのかなんて、私は分からない。何を考えているんだろう、何が好きなんだろうって勝手に思ってみることはあっても、わからない。だけど、話したり聞いたりした瞬間、ずっと前から知っていたような気になることがある。わかるわかるよ、かとって素敵だねくらいしか思いつかなくて何も言えなくなる。勝手に私だけとっても仲が良く思っていてなんだかもどかしかったりするときもある。

昔からの友人と話していても、急にぼーっとして、話なんか聞かずに、これが夢で、もうじきに覚めてしまうんじゃないかなって思うときがある。夢が覚めたら、自分は全然違う場所で、全然違う時間を生きていて、その友人はいなくて、母親も全然違う人だったりするのかもしれない。今夢で覚めてしまいそうになったら、きっと涙を流しながらお別れを言うだろう。何が夢なのかわからなくてなってきた。

夜の街を歩いている。多分私は人より幸せだと思う。比べるものなんかじゃないけれど、幸せだと思う。この夜の街の知らない人たちがそれなりに好きだったりする。多分それはなんとなく幸せなことなんだろう。

映画を観て、夜ご飯を食べる。飲み屋に行く。カラオケに行く。素敵な人がいる。きっと本当の本当に素敵な人って言うのは、きっとその人にとってだけの素敵な人なんだろう。ずーっと前から知っていたような。何もかも一緒に喜びたいような。なんにも話さないで、それでもぼーっと座っていたいような。なんにも知らないのに、うんそうだよねって思えるような。会ったばかりなのに、涙を流して泣いてしまうような。その素敵っていうのはものすごく勝手で一方的なのに、それでもそれを大事にしたくなるような。きっと別になにも言えずにさようならしてしまうけど、知らないどこかでずっと一緒にいるような気になるような。
多分もし夢で勝手に大泣きしてしまっても、それは幸せなことなんだろう。そろそろ、家に着く。



日記

大学の研究で若者論などの本を読みあさっている。若者論のブームは過ぎても、そしてまだ若者論は続く。
近頃はまた、ある種「ゆとり世代」と言われる若者たちに共通して流れる何か眼に見えないものを、とらえようとしている研究も多いのかもしれない。
どうやら若者たちの間では、何か具体的なものに対するはっきりとした問題より、まるで芥川龍之介が云ったような「ぼんやりとした不安」を感じている人が多いのだという。
幾つまでを若者と呼ぶか、果たして自分は知らないが、きっと私の左右の足のどちらかくらいは、まだとっぷりと若者というものに浸かっている。同時に、その「ぼんやりとした不安」というものを感じていたりもする。それは、なんとなく世代に共通に流れる空気のようなものにも思えなくもない。
人は、いつかは大人になる。いつまで経っても気持ちは子供のまんまだとしても、必ず若さを失ってゆく。歳をとってゆく。幾ら若者の定義が拡大していると言っても、40を迎えてもなお「若者」ということはないだろう。
自分も、いつかは若者なんて言えなくなる。いやむしろ、もしかしたらもう言えないのかもしれない。ただ、なんとなく、20を少し超えたばかりのこの時に、まだ自らの若さをなんとなく感じるこの時に、この「ぼんやりとした不安」について、なんとなく口に出してみようと思った。言葉にまとめてみようと思った。自分のそれが、果たして若者として一般性を持つかはわからないが、あるいは若者論のいうところの「ぼんやりとした不安」に、本当に該当するかわからないが、記してみたいと思う。だからこれは、自分自身の文章であるということに意味をもたない。そうではないか。ただこれは日記なのだけれど、でもこれは例えばあと10年経った時に、もしくはもっと経った時に、「22歳の頃はこんな風なぼんやりとした感覚を感じていたな」と振り返るためのものだ。あるいは、この時に、こんな風に考える若者がいたということを書くにすぎない。

大学3年の7月、何を選択するにも「将来」「未来」というものがちらつく。それは決して重大な問題ではなく、いや時に重大な場合もあるのだけれど、どうせなら、考えておいたほうが良いかな〜、程度の軽い気持ちである。
サークル活動に勤しむ時「どうせなら面接で話せるようにしたいな」ゼミの研究テーマを選ぶとき「どうせなら自分の問題意識と強く結びついたほうがいいな」飲みに行くとき「今のうちにこの人には会っておこう」遊びを決めるとき「旅行に行くなら今だな」
人は感覚で生きていくタイプと、理屈で生きていくタイプがいるという。自分が感覚的だと思うときも理屈っぽいなと思う時もあったが、最近思うのは、自分は極端に行動力がないということ。それ故、物事は感覚で判断するけど、それを自分の中で理屈で裏付けて初めて、行動できるということ。
何をするにもなんとなく「将来」平たく言うと「就職活動」につながっている今、自分は自分自身がなんとなく「やりたい」と思うことの裏付けや理由づけを探していた。
「やりたい」と思えることをやりたいのは何故だろう、とか、それを捨てて安定したものを選んだほうが良いのか、とか悩んでいる時、自分の思考は「幸せってなんだろう」「人生で為すべきことはなんだろう」というところまで迷い込んでいた。
なんとなく、生まれたからには社会に貢献したかった。と言っても「人の命を救いたい」とか「積極的にボランティアをしたい」ということではなくて、何かの役に立ちたい、くらいのぼんやりとしたものだった。
それは決して正義感とか、そういうすてきなものによってのことではなくて、むしろ自分自身の人生に、誇りを持ちたいということによってのことなんだと思う。
自分は何も成功したことはない。学歴もないし、履歴書の資格に胸を張ってかけるものもない。相手もそう思ってくれるような大親友がいる自信もないし、部活一つとっても、最後まで続いたことがない。花をいれる花瓶もないし、嫌じゃないしかっこつかないし。
だけど、少なくとも自分の人生はこれまで、決して不幸ではなかった。毎日不自由なく食べてこられた。大学まで通えた。気づいてないだけかもしれないけど、誰かに凄く嫌われたり憎まれたりしないで生きてこられた。
そういう環境的なものは別にしても、幸せだった。なぜかというと、20年少し生きてきて、嫌な人にほとんど出会わなかった。今まで忘れてしまった人のほうが多いのかもしれないけど、出会った人はみんなとてもいい人だった。すてきな人ばかりで、少し考えるだけで胸がいっぱいになってしまうような人ばかりな気がする。そういう人たちから、色んなことを教えてもらった。それは言葉だったり、生き方だったり、考え方だったり、単純に素敵な時間だったり。もっとこう、言葉にできない何かだったり。あるいは、音楽や、映画や、物語だったり。色んな人から、色んな素敵なものをもらって生きてきた。
そういうものに触れ合って、受け取って、積み重ねて、自分は自分自身を作っている。自分自身の価値観を、考えを更新し続けている。例えば単純なことでも、友達の頑張る姿と考え方を見て、触発されて自分も変わったり。自分のことは好きではないけれど、そうやって作ってきた考え方とか、ものの見方にはほんの少し、誇りを持っている。
資格も、技術も、才能も、残念なことに持ち合わせていないけれど、唯一、私はこうやって私自身が生きてきた時間を持っている。出会ったひとが作ってくれた歴史を持っている。それは勝手に、自分の中で一つのプライドになっている。
そうやって私の中にある時間は、きっと自分にしか出来ない何かを作ってくれている。きっと私の人生でしか言えない言葉や考え方がある。仕事がある。いや、それが他の誰かにも出来ることだってきっといいのだ。ただ、せっかく自分が貰ったきたなにかを、社会に還元したいのだ。生きてきて、せっかく自分が受け取った素敵なものを、ただ自分の中に抱えて死んでいくのはあまりにもかなしいし、勿体無いとおもう。素敵な誰かが自分にしてくれたように、同じように何かの役に立ちたかった。
それは社会そのものに対してでも良かったし、もっと小さく誰か一人のためだけでも良かった。ともかく誰かを今より幸せにするためにつかいたかった。
社会に対してなら、それが成し得る仕事に就きたかった。何の仕事をしても、少なからずそれは実現できるのだろう。でも、ほんの少しでも無駄にしたくなかった。ましてや、一生かけて従事するかもしれない仕事ならなおさらである。そこでも素敵な出会いをして、それも伝えていけたらなおのこといい。仕事をして、お金を貰うことも大事。でもそれは社会貢献に対する対価だと思っている。社会貢献はなにをしてでも成し得るのかもしれないが、出来ればその誇りをそれに活かしたかった。自分が精一杯仕事をすることで、誰かを幸せにできることがとても大事な気がしていた。でもそこに辿り着く道が見えずにいた。
それから、なんとなく自分は自分自身に対して、突き動かすものがないような気がしていた。なんとなくなりたい何かはあった。自分が今まで出会った誰かのように、もっと素敵になりたかった。けれど、ここまで生きてきて出会った人とか、なった自分になんとなく満足はしているし、お金や家、車や地位、素敵な家具、好きな小説を読むための時間などはあったほうがいい、とは思うけれど、別に絶対必要なものじゃない。少なくとも、自分自身がそれを得るためにまっすぐ進むためには、なんとなく今が足りている。欲しいものはいくらでもあるけど、欲望に突き動かされるのはもっと嫌だった。自分のために成し得たいことはないような気さえした。なんとなく、楽なほうへ楽なほうへ流れていくような気がしていた。
もしも、この人しかいない、というような取り替えられない人に出会えて、なんとなく自分もそう思ってもらえて、その人の幸せのために生きていけたらどれほど素敵なことだろう、なんて考えていた。そうすると自分の考えることは急に変わる。仕事なんてなんでもいいし、お金なんてもらえるだけ欲しい。今まで受け取ってきたすてきなものがもしあるのなら、それは仕事でもなくてその誰かをしあわせにするためにつかう。誰か一人のしあわせためだけに、自分の何かをつかえること以上のしあわせもまた、ない。けらけら笑って楽しそうな誰かを想像できるなら、欲望に突き動かされるのはとても素敵なことに思える。
けれど、今まで生きてきて決して取り替えられない人に多分、出会っていないし、長く関係が続いた人もいない。とてもとても素敵だな、と思う人はいても、そういう人ほど気づかないうちにさよならすることを私は知っている。放り投げられたように取り替えられない人が現れるんじゃなくて、少しづつ、お話したり泣いたり笑ったりする中でそうなっていくこともわかっている。でもそうやって他人と触れ合う前に、こそこそっと逃げ出してしまう自分がいるなんてこともどこかで思っている。特別な何かになれなくても、素敵な人は自分の人生には沢山いて、その人を少しでも元気にしたいって気持ちもなくはないけど、それはなんだか傲慢で寂しくなる。素敵な人とはこれが最後だって知らないまま「また来月あたり飲みましょうね」とかいうのが今生の別れになるかもしれないなんて思っている。運よく仲良くなって特別になっても、その大体はさよならだってなんとなく感じている。
きっと自分は、幸せって何なのかだってなんとなくわかっている。それがひとつじゃないことも、手に入れる方法さえもひとつじゃないこともわかっている。だけどそれがどうしても手に入らないんじゃないかって気もちになって、でもそれでもそれなりに生きていけることもわかっていながら、でもなんとなく「ぼんやりとした不安」を抱えている。というより途方に暮れている。未来はニュースが言うよりも真っ暗じゃない気がしているけれど、思い描くようなものじゃないものは嫌で駄々をこねている。七夕のお願いのつもりでないものねだりをしている。




aiko「秘密」

懐かしいようなせつないような、でも一度も味わったことのないような、それともずっとそばにある退屈のような、そんなもの。

ちょっと焦がれているような、だけど気だるい感じで、ただずっとそうしていたい。

 

秘密

秘密

 

 

1.You & Me both
2.二人
3.学校
4.キョウモハレ
5.横顔
6.秘密
7.ハルとアキ
8.星電話
9.恋道
10.星のない世界
11.シアワセ
12.ウミウサギ
13.約束

小沢健二「LIFE」

わざわざ書く必要もない名盤。でもたまにはこういうのも。

今までの自分の人生からすると、きっと小沢健二なんていけすかなくてたまらなくて、せいぜい「天使たちのシーン」は聴けたとしても「ラブリー」なんて歯が浮くようで聴けないはずなんだけど、何故か生きてきた中でトップクラスに好きなアルバムだとおもう。

だけど自分が好きなのはきっと「そっと手をのばせば僕らは手をつなげたさ」とじゃなくてむしろ、「そんな時はすぎて大人になりずいぶん経つ」って歌っているからなんだと今日改めて思った。 

LIFE

LIFE

 

1. 愛し愛されて生きるのさ
2. ラブリー
3. 東京恋愛専科 または恋は言ってみりゃボディー ブロー
4. いちょう並木のセレナーデ
5. ドアをノックするのは誰だ?
6. 今夜はブギー バック
7. ぼくらが旅に出る理由
8. おやすみなさい,仔猫ちゃん
9. いちょう並木のセレナーデ

日記

人は忘れる。よっぽどのことがない限り、自分の名前や通った小学校、机を机と呼ぶという事実、初恋の人に振られてしまったことなどは忘れないけれど、微妙なニュアンスやディティールは忘れてしまう。もし、あなたが小説家なら、湯船であんなにも楽しくかけると思った物語は、パソコンに向かった途端どうでもいい凡庸なものへと変わるだろう。

本を読むということ、調べ物をするということ、研究をするということなどは忘れるということの繰り返しだと最近思う。本を積み上げて上から順に読み進めていると自分の中の何かが、それに呼ばれてふっと輝く気がする。ただ、そこで決して続きに進んではいけない。続きに進んでしまうと、満たされるのは知的好奇心という耳障りの良いものだけで、何について気づいたのか何がどうなると思ったのか見当がつかなくなってしまうだろう。だからといって、その場ですぐメモなどをとったとしても、もはや手遅れである場合もあるし、それを読み終わり見返してもただと文字の並びにしか見えない場合もある。

忘れるということは、どうでもよくなることだ。「たまねぎ・醤油・もやし・たまご6個・梨・ベーコン 忘れちゃ駄目よ」とメモに書き、そのメモがどこかに消えてなくなっても、うっかり袋を開けてみたらベーコンがない、という事実がなければいいわけである。

しっかりメモを握りしめて、僕たちは歩いているけど、たまにそんなことは途端にどうでも良くなってしまう。野菜売り場を奥に行ったところのちくわのところまでは辿り着いたのに、その先に行こうとすると何もかも面倒になって、いいや、玉ねぎにひき肉で何かを作ろう、あるいは、駅前のラーメン屋でいっぱい引っ掛けて帰ろうか。すっかりあたりが暗くなって、ああこんなに飲むなら普通に、居酒屋に行くかそれこそ、もう少し奥に行って、ビールを買って帰ればよかったなぁなんて思ったりもして、だけどなんとなく星なんか見えるもんだから鼻歌なんて歌い、あれ?この歌サビの部分しかわからない。ふとポケットに手を入れてみると「ベーコン 忘れちゃ駄目よ」丸めてポイと投げる。入った。

 

「人は皆忘れる」というが、それは言い換えると人は皆どうでもよくなる、ということなのだと思う。お前は嫌いだ駄目だ死ねよと罵り合って、死ねなんて言ってしまった、と言葉の力が首を締め付ける。家に帰るとそんな時に限って借りていた本が転がっている、そこまではなくても「一生口なんかきくものか」などと考えていたのが翌朝、顔を合わせた途端なんだか色々がとてもちっぽけなことに思えて、口を開こうとした瞬間「ごめんね」なんて聞こえる。そうするとなんで怒っていたのかなんてもうわからなくなる。考えてみれば、恐竜の絶滅の理由が隕石であろうが、火山の活動であろうが、タイムマシンだろうが、そんなこと毎日の生活には何の関係もないのだ。

忘れるというのは悲しいことだ。初めて出来た恋人と待ち合わせて見つからないように歩いた帰り道。部活終わりに歩道橋の上を歩いていたら、夕焼けがとても綺麗だったこと。今はセリフを覚えている映画を初めてみたこと。羅列しようと思えばいくらでも書ける、けれども、それがどんな感じだったか、どんな気持ちだったか覚えてる?うれしい?かなしい?

心が崩れてしまいそうなとき支えてくれた言葉とか、大好きなんて言われて幸せだって思うこと、もしくは負けて負けて駄目で駄目で歯を食いしばって見返えそうだなんて決意したり、あんまり関係ないけど、あのときのカレーライスの味やら、絶対忘れたくない!と思うことはたくさんあったはずなのに、時々忘れてしまった事に気づいて、なにかしら思い出そうとしてみたり。なにかを手がかりに頑張ってみることもあるし、うーんと悩み続けることだってあるだろう。大抵はその1割でも思い出せた気になれば大成功で、思い出せないことに愕然とする。もう少し元気でいられるなら、中学2年生の時に好きだった歌が響かなくなって、おとなになったんだな、と少し寂しくおもうだけだ。

それでも、悲しいと思うのは仕方のないことで、人間の頭はそういう風にできている。大きなショックを和らげなければ自殺してしまうかもしれないし、一目惚れしたままだったらじきに、血液が体に回りすぎてしまうだろう。本当に悲しいのは何かを忘れて、あ、どうでもいいや、などと思ってしまうことなのかもしれない。

自分は不幸な人生を送ってはいないし、例えば中学高校生時代なんか普通に友達もいたはずだ。ああ、死んでもいい!と思うような幸福な瞬間だって、何度かあったはずだ。それが100万円(正確には、ひゃくまんえん)拾ったとか、結婚したとか、行きたかった学校に合格したとかそういうことではなくたって、自分は自分なりの精一杯の幸せを感じた瞬間があったはずだし、友達みんな大好きだなんて、結構お花畑様なことを叫びだしたくなって踊りたくなった瞬間だってなかったとは言い切れない。

自分がもし明日消えてなくなるとしたら、誰に何を伝えるのだろう。何かにこんなふうに問われて考えてはみるけれど、なんだか伝えるべきひとが誰一人いないような気がしてくる。家族?恋人?なにか言うべきことはあるのか。友達の顔を思い浮かべるけど、あれ?例えばこの22年何を積み上げて、誰にもらったどんな言葉で嬉しいと思ったんだっけ。ふと携帯など開いてみると、飲みに行こうなどと連絡が入っていたり、あるいは、適当に飲みに行きません?と送ってみたりするわけで、そんなこと考えていても仕方がない、なんて結論になる。なにか大事だなといつかの自分が思った事を忘れてしまっているけど、実際は別に特に思うところがあるわけではない。昔過ぎたり、今見ると漠然としていたりして、わからない。

そもそも、自分はこれを何を書こう、と思い書き始めたのだろうか。気分転換だっただろうか。大体、自分は文字を書くのが苦手だし冒頭からここまで休み休み思い出しながら、もしくは本を読みながら書いたものだから優に2時間は経ってしまっている。そうすると書き始めたときの気持ちなんて当たり前のように忘れている。最初は幸せについて書きたかった気がする。お金を稼いだら幸せなのか、やりたいことをやっていたら幸せなのか、思う存分眠れたら幸せなのか。結局、やさしくなりたいってことを思って書き始めた気がする。今の気持ちで書いても、思いついた気持ちよりよっぽど言葉が軽くなっている。

「麦畑/二人の女の子/一人が奥へ進む/一人が『はやく』という/もう一人は『待って』といってかき分けて背を追う/ひとり、声をかけられるが止まることなく奥へとすすむ」という一枚のメモ。高校のときのノートの隙間から出てきたのかもしれない。急いで書いたようで走り書きである。さっと目を通し、なるほど、きっと当時の自分はこんなことを考えていたんだな、と微笑ましくなりもう1度読んでみてさて、何を書きたかったんだろうと考えるが、分からないのでローソンのレシートやら、日高屋のレシートやらと一緒に丸めてゴミ箱へ捨てる。そろそろ昼食でも作ろうかと思い冷蔵庫を見るがほうれん草くらいしかない、何かを買ってくるか。昨日は何を食べたっけな、そういえば、昨日結局何も買わずに帰ったんだった。ほうれん草で何しようとしてたんだっけ、まぁいいか。どうでもいい。「ベーコン 忘れちゃ駄目よ」

いろんなことに追われていると、自分がなにをしていいかわからなくなる。何かのためと思っているものがただ唯一、その場の快楽のためなんてことは良くある話で。気づいたら誕生日がすぎるのは漫画の中だけの話としても、ふと時間が出来ると自分と向き合いたくなる。何のため?それはどんな人も多分、少しでも幸せになるため、じゃあ、自分にとって何をすれば幸せなんだろう。やさしくなること?あれ?それはなんでだっけ?信じられないことに、日がもう昇っている時間で、鳥が鳴き出している。まだ読まなくてはいけない資料も残っているし、でもとりあえず眠いから、少し仮眠をとることにする。あれ?紙とペンとパソコンと、電気スタンドをのせているこれは、なんというんだっけ?