怒りのツイート
怒りのままツイートみたいに一気に書く、例えば、反政権って言葉があるけど、私の認識は政府が悪をしているから反対するんじゃなくて、当たり前だけどどちらも正しいってことがあって、どちらも譲れないことがあって、それで選ばれた人が調整するわけだけど、じゃあ選ばれた人が決めたから正しいかって言うとそういうわけじゃなくて、やっぱり私の正しさは譲れないよねって話だと思うんです、そういう意味では実際に悪いか悪くないかって全然関係なくて、むしろそれこそどうでもいいことでフェイクだと思うんですよね、我々はそんなことを見抜けるほど優秀じゃないしもっと別の何かに騙されているかもしれないわけで、そういう意味で例えばマヒトのエネルギーには敬意を感じるけど全然あの東京はフェイクだと思う、余計な言葉がすべてを台無しにしている、別にダーティな顔なんてどこにもいないと思う、いやいるのかもしれないけどそれもどっちでもいいよねって話で、それがあるせいで私には東京の歌に聴こえなくなってしまう、政治の歌じゃないぜ、いや政治の歌だと思う、思ってしまう、
これは私が正しい、で、同時にマヒトにとってはマヒトが正しいんだと思う、で、それは両立していてそれはそれでいいと思う、別に私がそれでこのエネルギーを私の歌じゃないって感じて、おなじ好きな人の笑う顔、いいな、最高、愛してるぜ、それが見えてるのに、私の歌じゃないと思ってしまっても、それは別にだいじょうぶだと思う、しょうがないことだと思う、あなたは正しい、だけどやっぱり私だって正しい、本当にいいことを言ってる、神、脱線したね、それはだいじょうぶなんだよ、あくまで私の歌じゃないだけ、誰も死なない、何も死なない、から、これは前置きね、だから私なりの政治の話じゃないことをする、
正しさは両立するし、両立したまま矛盾してていい、でも、何かが死ぬ場合は違うよね、私は、私はだけど違うと思う、正しいが2個あるとき、3個あるとき、4個あるとき、いや、いつも100個とか100万個とかあるけど、その時に、どっちに立つのかって話だと思うんです、どっちかに立たなきゃいけないときはあるし、もし立ったらちゃんと怒らなきゃいけない、
その正しいが、どっちも正しいよね、うん、わかるわかる、大切にしたいよね、誰も悪くないよね、って思っても良くて、自分が、そうだよね、これとこれが正しい、って選んだ例えば2つ、2つの正しさが両立せず相反するものだったとしても、どっちも選んでいいし、違う自分がいていいんだけど、どっちに立つか、それはちゃんとしなくちゃいけないと思う、この死ぬっていうのは命の話じゃなくて、命もなんだけど、なにか、気持ちとか、大事にしてることとか、なくなった時に、ああ死んだな、ってなっちゃうような心のこととか、そういうね、
で、どこに立つかって話で、これは当てはまらない人もいると思うから、当てはまる人に向けてしか話さないんですけど、芸術に救われたり、生かされたり、生活の中に宿したり、特に受け手、芸術を享受している人、愛しているけど、基本的に普段は責任を負ってない人、は、絶対にそっちに立つべでしょ、それが唯一の責任じゃんか、いや、責任だからやれっていうんじゃなくて、なんかもう、うまくいえないんだけど、
芸術なんて、簡単にいらない方に分別されちゃうわけじゃんか、そんなことないのに、そんなことないっていうのは私の見方で、繰り返しになるけど、他の人の正しさではそれよりも大切なことがあるからいらない方に置かざるをえなくて、それも正しいけど、それは私たちには正しくない、最初に反政権っていったけど、それは公と例えば芸術(もちろんここには色んなものが代入できるけど)が対立したとき、絶対に芸術にたつべきってことで、別に嫌いなものとか間違ってるものを断罪するとか、強いものを殴りつけるためのものじゃないと思うんだよな、それとそれはものすごく似ているけどぜんぜん違う、話を戻します、
作り手には責任がある、だから私達より芸術を愛していたとしても、芸術に立てないことがある、芸術を愛していても、理知的な判断が求められるときもあるし、商業なら尚更、安全や信頼は大切にするべきだし、その全部が正しくて何も間違っていない、芸術に立ってそっちが大切だっていうのは1人称になってしまうし、それをやさしさと、軽く笑えるユーモアで乗り越えてるのはまじ本当に素晴らしいと思うし、正しい、けどじゃあ尚更受け手は絶対にそれに甘えちゃいけないきがする、いけない、ユーモアでほっとして、優しい気持ちになって、「しょうがないよねー」とかヘラヘラするべきじゃない、それがその人の正しさの人はいいんだよ、でもさ、あー伝われ、いらない方に分別する、その逆でいて、なんにもしょうがなくない、なにがしょうがないんだ、本当にしょうがないことがあるか?しょうがないよね、ってなってしまう状況は絶対に存在している、いらない方に分別しなきゃいけない選択を強いられるときもある、でもそれは本当に今?その程度なの、ちゃんと考えて喋っている?適当に話すな、つけこまれるな、怒れ、搾取されるな、なんでいちばん大事なそれを簡単に搾取されるんだ、ヘラヘラするなよ、慰めに向けるのではない作り手にむける「しょうがないですよね!この状況じゃ」ってそれはエールじゃなくてお前も滅ぼす側だとおもう、
いつもは芸術の側に立ってますよー、芸術って呼び方をしてなかったとしても、作り手からの愛を散々享受して、ニヤニヤしてるやつが、なんかちょっとグラッとすることが起きただけで、それに誇りがある場合はいいですけど(いちいち注釈を入れなきゃいけないのがめんどくさい)、簡単に芸術じゃない公とか、いや公じゃなくて安全だったり規律だったりもするんですけど、簡単にそういう方に巻かれて、流されて、それは絶対に違うじゃんか、どこに立っている?となってしまいます、別にこれは今回の話だけじゃなくて、この前のお笑い芸人のあのこととか、正しさはたくさんあるけど、そのときだって普段の立ち位置をぽーんとほうり出す人がいて、
めんどくさくなったから、まとめて雑に話すと、で、今回は芸術の側に立ってないひとがその人の正しさで安易に指針を出して、その結果、いろんな事が起こっている、この行為自体を愚かだって言うつもりはない、でも私は愚かだと思う、正しいことだと思う、でも私にとっては正しくない、本当に愚か、ヘラヘラしてるひともおなじくらい愚か、そういう意味で反権力であれよとも思うしどこに立ってるの?と思う、続きはまた書くかもしれないし書かないかもしれない
メモ
生きてる、仕事、やること諸々に対する意味、執着など羅列
なんか冷静に整理すれば元気出るような気がした
・結婚したい
結婚したい。子どもも持てずに死ねない。*1孫を見せたい気持ちもある。
・親より先に死ねない
親不孝は考える。それはしちゃいけないと思う
・映画を撮ってない
映画くらい撮ってから死にたい
・幼馴染
幼馴染が頑張ってる間は負けない、いや負けても良いんだけどでも最低限の誇りは持ったままでいたい
・舞台をやってる友達
そこに対してコンプレックスをもちたくない。笑顔で応援したい。唯一の私のプライドかもしれない
・友達のしゅんくん
彼にもらってる恩が多すぎて返すまではリタイヤしちゃいけないような気がする
・推し
推しが居るってことは執着だと思う これも負けたくないみたいな気持ちはある
・満島ひかり
彼女と同じ時代に行きているのだから見届けたい。あわよくば一生の内で一緒に仕事をしてみたい
とりあえずこんな感じ、思いついたら追加
*1:養子でもいいし結婚して子どもを持たない選択をすることも含めて
日記
メモ
・個人的な備忘録、神様についてのメモ あるいは創作のために
・宗教と神は違う
・とはいえ別にそれであっても構わない
・例示 何故我々は生まれたのだろう
・かつては説明に神を用いたが
・今は科学でシステムが説明できる
・とはいえでは何故そのシステムは存在するのか?
・リンゴが落ちるのは万有引力のせい?
・では何故万有引力は存在するのか?
・言葉を発する
・辛辣な言葉を発する
・ひどい言葉をぶつける
・それは傷となり彼の重荷となる
・彼は飛行機をつくる
・ダイナマイトをつくる
・核兵器をつくる
・オートミールをつくる
・畑をつくる
・畑をたがやす
・そうして言葉は都市となり積み重なり宇宙になる
・というシステム
・右に曲がると左には曲がれないというシステム
・選択には対価がある
・という法則
・神話
・不完全な神話
・アダムとイヴ
・世の中のシステムが未だわからない段階で集められた知恵
・それは同じものだが違う
・法則と発展
・知恵の更新
・神の更新
・最新のダイエット方法
・スポーツ選手の食事
・私は右手を宙にあげる
・それは何故?意思?
・では何故そこに意思があるか
・それをなんと呼ぶか
・物事に名前をつけた人
・物事に名前をつけた人によって構成された私の自我
・文字
・右手
・恋
・朝日
日記
日記
日記
人は忘れる。よっぽどのことがない限り、自分の名前や通った小学校、机を机と呼ぶという事実、初恋の人に振られてしまったことなどは忘れないけれど、微妙なニュアンスやディティールは忘れてしまう。もし、あなたが小説家なら、湯船であんなにも楽しくかけると思った物語は、パソコンに向かった途端どうでもいい凡庸なものへと変わるだろう。
本を読むということ、調べ物をするということ、研究をするということなどは忘れるということの繰り返しだと最近思う。本を積み上げて上から順に読み進めていると自分の中の何かが、それに呼ばれてふっと輝く気がする。ただ、そこで決して続きに進んではいけない。続きに進んでしまうと、満たされるのは知的好奇心という耳障りの良いものだけで、何について気づいたのか何がどうなると思ったのか見当がつかなくなってしまうだろう。だからといって、その場ですぐメモなどをとったとしても、もはや手遅れである場合もあるし、それを読み終わり見返してもただと文字の並びにしか見えない場合もある。
忘れるということは、どうでもよくなることだ。「たまねぎ・醤油・もやし・たまご6個・梨・ベーコン 忘れちゃ駄目よ」とメモに書き、そのメモがどこかに消えてなくなっても、うっかり袋を開けてみたらベーコンがない、という事実がなければいいわけである。
しっかりメモを握りしめて、僕たちは歩いているけど、たまにそんなことは途端にどうでも良くなってしまう。野菜売り場を奥に行ったところのちくわのところまでは辿り着いたのに、その先に行こうとすると何もかも面倒になって、いいや、玉ねぎにひき肉で何かを作ろう、あるいは、駅前のラーメン屋でいっぱい引っ掛けて帰ろうか。すっかりあたりが暗くなって、ああこんなに飲むなら普通に、居酒屋に行くかそれこそ、もう少し奥に行って、ビールを買って帰ればよかったなぁなんて思ったりもして、だけどなんとなく星なんか見えるもんだから鼻歌なんて歌い、あれ?この歌サビの部分しかわからない。ふとポケットに手を入れてみると「ベーコン 忘れちゃ駄目よ」丸めてポイと投げる。入った。
「人は皆忘れる」というが、それは言い換えると人は皆どうでもよくなる、ということなのだと思う。お前は嫌いだ駄目だ死ねよと罵り合って、死ねなんて言ってしまった、と言葉の力が首を締め付ける。家に帰るとそんな時に限って借りていた本が転がっている、そこまではなくても「一生口なんかきくものか」などと考えていたのが翌朝、顔を合わせた途端なんだか色々がとてもちっぽけなことに思えて、口を開こうとした瞬間「ごめんね」なんて聞こえる。そうするとなんで怒っていたのかなんてもうわからなくなる。考えてみれば、恐竜の絶滅の理由が隕石であろうが、火山の活動であろうが、タイムマシンだろうが、そんなこと毎日の生活には何の関係もないのだ。
忘れるというのは悲しいことだ。初めて出来た恋人と待ち合わせて見つからないように歩いた帰り道。部活終わりに歩道橋の上を歩いていたら、夕焼けがとても綺麗だったこと。今はセリフを覚えている映画を初めてみたこと。羅列しようと思えばいくらでも書ける、けれども、それがどんな感じだったか、どんな気持ちだったか覚えてる?うれしい?かなしい?
心が崩れてしまいそうなとき支えてくれた言葉とか、大好きなんて言われて幸せだって思うこと、もしくは負けて負けて駄目で駄目で歯を食いしばって見返えそうだなんて決意したり、あんまり関係ないけど、あのときのカレーライスの味やら、絶対忘れたくない!と思うことはたくさんあったはずなのに、時々忘れてしまった事に気づいて、なにかしら思い出そうとしてみたり。なにかを手がかりに頑張ってみることもあるし、うーんと悩み続けることだってあるだろう。大抵はその1割でも思い出せた気になれば大成功で、思い出せないことに愕然とする。もう少し元気でいられるなら、中学2年生の時に好きだった歌が響かなくなって、おとなになったんだな、と少し寂しくおもうだけだ。
それでも、悲しいと思うのは仕方のないことで、人間の頭はそういう風にできている。大きなショックを和らげなければ自殺してしまうかもしれないし、一目惚れしたままだったらじきに、血液が体に回りすぎてしまうだろう。本当に悲しいのは何かを忘れて、あ、どうでもいいや、などと思ってしまうことなのかもしれない。
自分は不幸な人生を送ってはいないし、例えば中学高校生時代なんか普通に友達もいたはずだ。ああ、死んでもいい!と思うような幸福な瞬間だって、何度かあったはずだ。それが100万円(正確には、ひゃくまんえん)拾ったとか、結婚したとか、行きたかった学校に合格したとかそういうことではなくたって、自分は自分なりの精一杯の幸せを感じた瞬間があったはずだし、友達みんな大好きだなんて、結構お花畑様なことを叫びだしたくなって踊りたくなった瞬間だってなかったとは言い切れない。
自分がもし明日消えてなくなるとしたら、誰に何を伝えるのだろう。何かにこんなふうに問われて考えてはみるけれど、なんだか伝えるべきひとが誰一人いないような気がしてくる。家族?恋人?なにか言うべきことはあるのか。友達の顔を思い浮かべるけど、あれ?例えばこの22年何を積み上げて、誰にもらったどんな言葉で嬉しいと思ったんだっけ。ふと携帯など開いてみると、飲みに行こうなどと連絡が入っていたり、あるいは、適当に飲みに行きません?と送ってみたりするわけで、そんなこと考えていても仕方がない、なんて結論になる。なにか大事だなといつかの自分が思った事を忘れてしまっているけど、実際は別に特に思うところがあるわけではない。昔過ぎたり、今見ると漠然としていたりして、わからない。
そもそも、自分はこれを何を書こう、と思い書き始めたのだろうか。気分転換だっただろうか。大体、自分は文字を書くのが苦手だし冒頭からここまで休み休み思い出しながら、もしくは本を読みながら書いたものだから優に2時間は経ってしまっている。そうすると書き始めたときの気持ちなんて当たり前のように忘れている。最初は幸せについて書きたかった気がする。お金を稼いだら幸せなのか、やりたいことをやっていたら幸せなのか、思う存分眠れたら幸せなのか。結局、やさしくなりたいってことを思って書き始めた気がする。今の気持ちで書いても、思いついた気持ちよりよっぽど言葉が軽くなっている。
「麦畑/二人の女の子/一人が奥へ進む/一人が『はやく』という/もう一人は『待って』といってかき分けて背を追う/ひとり、声をかけられるが止まることなく奥へとすすむ」という一枚のメモ。高校のときのノートの隙間から出てきたのかもしれない。急いで書いたようで走り書きである。さっと目を通し、なるほど、きっと当時の自分はこんなことを考えていたんだな、と微笑ましくなりもう1度読んでみてさて、何を書きたかったんだろうと考えるが、分からないのでローソンのレシートやら、日高屋のレシートやらと一緒に丸めてゴミ箱へ捨てる。そろそろ昼食でも作ろうかと思い冷蔵庫を見るがほうれん草くらいしかない、何かを買ってくるか。昨日は何を食べたっけな、そういえば、昨日結局何も買わずに帰ったんだった。ほうれん草で何しようとしてたんだっけ、まぁいいか。どうでもいい。「ベーコン 忘れちゃ駄目よ」
いろんなことに追われていると、自分がなにをしていいかわからなくなる。何かのためと思っているものがただ唯一、その場の快楽のためなんてことは良くある話で。気づいたら誕生日がすぎるのは漫画の中だけの話としても、ふと時間が出来ると自分と向き合いたくなる。何のため?それはどんな人も多分、少しでも幸せになるため、じゃあ、自分にとって何をすれば幸せなんだろう。やさしくなること?あれ?それはなんでだっけ?信じられないことに、日がもう昇っている時間で、鳥が鳴き出している。まだ読まなくてはいけない資料も残っているし、でもとりあえず眠いから、少し仮眠をとることにする。あれ?紙とペンとパソコンと、電気スタンドをのせているこれは、なんというんだっけ?