めも

エッセイよりは酷い殴り書き

日記

冬が好きだ。夏が暑くなりすぎたせいか、気づいたら花粉症になってしまったせいか、いつの日からか冬がとても好きになっていた。

なぜ好きなのだろうと考えてみても、うまく説明できない。空気が冷たくて気持ちいいとか、息をはいてみたら白くなっていることとか、なんとも言えない絶妙な寂しさとか。クリスマスが近づいてきたころに、街の中を一人で歩いている時の寂しさなんて絶妙だ。何処か賑やかで浮かれている街でも、絶対に一人で歩く瞬間がある。マフラーをしても寒いので、体を小さくして歩く。耳を澄まさなくても、クリスマスソングなんかが流れていて、それがディズニーだったりするとなおのこと寂しい。
流れてくるメロディーを聴きながら、何かを考える。ワクワクしながらサンタクロースを待った子どもの頃のことだったり、記憶の端の方で流れているホームアローンのことだったり。未だにサンタクロースは見たことないけれど、いると思っている。もしかしたら目には見えないかもしれないけれど。
あるいは、子どもの頃ではなくて恋人やら、元恋人やら、そういうことを考えたりするかもしれない。家族のことを考えるかもしれない。わざと小沢健二のLIFEなんかを流してみたりするのかもしれない。
寒くて、寂しくて、街が明るくて、だけれども一人で歩いている人は、例えばこれから帰って待っている誰かのことを考えている。もう会えなくなってしまった誰かのことを考えている。これをプレゼントしたら喜ぶだろうなと、また誰でもない誰かのことを考えている。
冬は好きでも、雪はあまり好きではない。小学生の時、部屋でゆっくり大河ドラマの録画を観ていたら、雪が積もっていて、田中くんが誘ってきた。自分はなんとなく外へ出て、雪だるまなど作っていたら、案の定手や足が痒くてたまらなくなり、帰ろうが風呂に入ろうが新撰組最終回の余韻を楽しむどころではなくなった。そのせいで苦手なのかもしれない。
あるいは、中学生の時、今度こそ手を痒くしてなるものかと息巻いてひっそりと歩いていた私に、帰り道興奮した城田くんがひたすら雪を投げてきたせいか。服の間に入るほどで、滅多に怒らないのに早歩きして先に引き上げてしまった。凶器を投げてくる城田くんが楽しそうなのも癪に障ったのだろう。
大学受験の時など、例によって悩まされ、靴下は濡れるわ、または電車は止まり開始はおくれ、ひっそりとひっそりと歩き精神をすり減らしたせいで良い結果がなかったのだと確信している。もうこのような思いはするまいと前日にビジネスホテルに泊まった時も、覚えているのは英単語や歴史の年号どころか、部屋のラジオで聴いたクロマニヨンズのメロディーばかりで同じ結果だったのだけれど。
まぁ、そのような思いは置いておくとしても、ささやかな寂しさや、浮かれている中一人で歩いたり、そういう人を見ているのが好きな自分にとっては、雪は冷た過ぎるというだけでなく、どうも華やか過ぎる気がする。わー雪だ、と騒いでみるほどまっすぐに生きてもいないし、そのようなものも眩しすぎると思ってしまう。スポットが雪そのものにあたってしまうような気がして、なんでもない冬の景色とは別のものとなってしまう。それよりは華やいでいる中で誰かがそこにいない誰かを考えているのがとても好きなんだと思う。
もう冬が終わってしまう。大好きな季節が終わってしまう。ここから半年以上も何を楽しみに生きればいいのかなんて思ってしまう。この冬からなにかを持っていきたいのにと思う。寒い中芸劇の前で集まって、何時間もウイスキーだけで暖をとったことやら、寒い寒いといいながら上着も着ないで、自動販売機のホットドリンクだけ買って帰ったこととか、風がびゅうびゅうと吹いているのに、一駅歩こうと足をすすめ、ずーっと駅の間を往復したこととか、など。多分今年も雪は降ったのだろうし、確か降ったはずだが、好まないせいかあまり覚えていない。例えば、雪が降ってきて誰でもないかもしれない誰かとそれを見ながら、次の冬もこんなふうにまた雪の降るのをみたいなと思う瞬間があれば、次の冬までそれを楽しみに生きて行けるのになと思う。