めも

エッセイよりは酷い殴り書き

日記

人は忘れる。よっぽどのことがない限り、自分の名前や通った小学校、机を机と呼ぶという事実、初恋の人に振られてしまったことなどは忘れないけれど、微妙なニュアンスやディティールは忘れてしまう。もし、あなたが小説家なら、湯船であんなにも楽しくかけると思った物語は、パソコンに向かった途端どうでもいい凡庸なものへと変わるだろう。

本を読むということ、調べ物をするということ、研究をするということなどは忘れるということの繰り返しだと最近思う。本を積み上げて上から順に読み進めていると自分の中の何かが、それに呼ばれてふっと輝く気がする。ただ、そこで決して続きに進んではいけない。続きに進んでしまうと、満たされるのは知的好奇心という耳障りの良いものだけで、何について気づいたのか何がどうなると思ったのか見当がつかなくなってしまうだろう。だからといって、その場ですぐメモなどをとったとしても、もはや手遅れである場合もあるし、それを読み終わり見返してもただと文字の並びにしか見えない場合もある。

忘れるということは、どうでもよくなることだ。「たまねぎ・醤油・もやし・たまご6個・梨・ベーコン 忘れちゃ駄目よ」とメモに書き、そのメモがどこかに消えてなくなっても、うっかり袋を開けてみたらベーコンがない、という事実がなければいいわけである。

しっかりメモを握りしめて、僕たちは歩いているけど、たまにそんなことは途端にどうでも良くなってしまう。野菜売り場を奥に行ったところのちくわのところまでは辿り着いたのに、その先に行こうとすると何もかも面倒になって、いいや、玉ねぎにひき肉で何かを作ろう、あるいは、駅前のラーメン屋でいっぱい引っ掛けて帰ろうか。すっかりあたりが暗くなって、ああこんなに飲むなら普通に、居酒屋に行くかそれこそ、もう少し奥に行って、ビールを買って帰ればよかったなぁなんて思ったりもして、だけどなんとなく星なんか見えるもんだから鼻歌なんて歌い、あれ?この歌サビの部分しかわからない。ふとポケットに手を入れてみると「ベーコン 忘れちゃ駄目よ」丸めてポイと投げる。入った。

 

「人は皆忘れる」というが、それは言い換えると人は皆どうでもよくなる、ということなのだと思う。お前は嫌いだ駄目だ死ねよと罵り合って、死ねなんて言ってしまった、と言葉の力が首を締め付ける。家に帰るとそんな時に限って借りていた本が転がっている、そこまではなくても「一生口なんかきくものか」などと考えていたのが翌朝、顔を合わせた途端なんだか色々がとてもちっぽけなことに思えて、口を開こうとした瞬間「ごめんね」なんて聞こえる。そうするとなんで怒っていたのかなんてもうわからなくなる。考えてみれば、恐竜の絶滅の理由が隕石であろうが、火山の活動であろうが、タイムマシンだろうが、そんなこと毎日の生活には何の関係もないのだ。

忘れるというのは悲しいことだ。初めて出来た恋人と待ち合わせて見つからないように歩いた帰り道。部活終わりに歩道橋の上を歩いていたら、夕焼けがとても綺麗だったこと。今はセリフを覚えている映画を初めてみたこと。羅列しようと思えばいくらでも書ける、けれども、それがどんな感じだったか、どんな気持ちだったか覚えてる?うれしい?かなしい?

心が崩れてしまいそうなとき支えてくれた言葉とか、大好きなんて言われて幸せだって思うこと、もしくは負けて負けて駄目で駄目で歯を食いしばって見返えそうだなんて決意したり、あんまり関係ないけど、あのときのカレーライスの味やら、絶対忘れたくない!と思うことはたくさんあったはずなのに、時々忘れてしまった事に気づいて、なにかしら思い出そうとしてみたり。なにかを手がかりに頑張ってみることもあるし、うーんと悩み続けることだってあるだろう。大抵はその1割でも思い出せた気になれば大成功で、思い出せないことに愕然とする。もう少し元気でいられるなら、中学2年生の時に好きだった歌が響かなくなって、おとなになったんだな、と少し寂しくおもうだけだ。

それでも、悲しいと思うのは仕方のないことで、人間の頭はそういう風にできている。大きなショックを和らげなければ自殺してしまうかもしれないし、一目惚れしたままだったらじきに、血液が体に回りすぎてしまうだろう。本当に悲しいのは何かを忘れて、あ、どうでもいいや、などと思ってしまうことなのかもしれない。

自分は不幸な人生を送ってはいないし、例えば中学高校生時代なんか普通に友達もいたはずだ。ああ、死んでもいい!と思うような幸福な瞬間だって、何度かあったはずだ。それが100万円(正確には、ひゃくまんえん)拾ったとか、結婚したとか、行きたかった学校に合格したとかそういうことではなくたって、自分は自分なりの精一杯の幸せを感じた瞬間があったはずだし、友達みんな大好きだなんて、結構お花畑様なことを叫びだしたくなって踊りたくなった瞬間だってなかったとは言い切れない。

自分がもし明日消えてなくなるとしたら、誰に何を伝えるのだろう。何かにこんなふうに問われて考えてはみるけれど、なんだか伝えるべきひとが誰一人いないような気がしてくる。家族?恋人?なにか言うべきことはあるのか。友達の顔を思い浮かべるけど、あれ?例えばこの22年何を積み上げて、誰にもらったどんな言葉で嬉しいと思ったんだっけ。ふと携帯など開いてみると、飲みに行こうなどと連絡が入っていたり、あるいは、適当に飲みに行きません?と送ってみたりするわけで、そんなこと考えていても仕方がない、なんて結論になる。なにか大事だなといつかの自分が思った事を忘れてしまっているけど、実際は別に特に思うところがあるわけではない。昔過ぎたり、今見ると漠然としていたりして、わからない。

そもそも、自分はこれを何を書こう、と思い書き始めたのだろうか。気分転換だっただろうか。大体、自分は文字を書くのが苦手だし冒頭からここまで休み休み思い出しながら、もしくは本を読みながら書いたものだから優に2時間は経ってしまっている。そうすると書き始めたときの気持ちなんて当たり前のように忘れている。最初は幸せについて書きたかった気がする。お金を稼いだら幸せなのか、やりたいことをやっていたら幸せなのか、思う存分眠れたら幸せなのか。結局、やさしくなりたいってことを思って書き始めた気がする。今の気持ちで書いても、思いついた気持ちよりよっぽど言葉が軽くなっている。

「麦畑/二人の女の子/一人が奥へ進む/一人が『はやく』という/もう一人は『待って』といってかき分けて背を追う/ひとり、声をかけられるが止まることなく奥へとすすむ」という一枚のメモ。高校のときのノートの隙間から出てきたのかもしれない。急いで書いたようで走り書きである。さっと目を通し、なるほど、きっと当時の自分はこんなことを考えていたんだな、と微笑ましくなりもう1度読んでみてさて、何を書きたかったんだろうと考えるが、分からないのでローソンのレシートやら、日高屋のレシートやらと一緒に丸めてゴミ箱へ捨てる。そろそろ昼食でも作ろうかと思い冷蔵庫を見るがほうれん草くらいしかない、何かを買ってくるか。昨日は何を食べたっけな、そういえば、昨日結局何も買わずに帰ったんだった。ほうれん草で何しようとしてたんだっけ、まぁいいか。どうでもいい。「ベーコン 忘れちゃ駄目よ」

いろんなことに追われていると、自分がなにをしていいかわからなくなる。何かのためと思っているものがただ唯一、その場の快楽のためなんてことは良くある話で。気づいたら誕生日がすぎるのは漫画の中だけの話としても、ふと時間が出来ると自分と向き合いたくなる。何のため?それはどんな人も多分、少しでも幸せになるため、じゃあ、自分にとって何をすれば幸せなんだろう。やさしくなること?あれ?それはなんでだっけ?信じられないことに、日がもう昇っている時間で、鳥が鳴き出している。まだ読まなくてはいけない資料も残っているし、でもとりあえず眠いから、少し仮眠をとることにする。あれ?紙とペンとパソコンと、電気スタンドをのせているこれは、なんというんだっけ?

 

日記

冬が好きだ。夏が暑くなりすぎたせいか、気づいたら花粉症になってしまったせいか、いつの日からか冬がとても好きになっていた。

なぜ好きなのだろうと考えてみても、うまく説明できない。空気が冷たくて気持ちいいとか、息をはいてみたら白くなっていることとか、なんとも言えない絶妙な寂しさとか。クリスマスが近づいてきたころに、街の中を一人で歩いている時の寂しさなんて絶妙だ。何処か賑やかで浮かれている街でも、絶対に一人で歩く瞬間がある。マフラーをしても寒いので、体を小さくして歩く。耳を澄まさなくても、クリスマスソングなんかが流れていて、それがディズニーだったりするとなおのこと寂しい。
流れてくるメロディーを聴きながら、何かを考える。ワクワクしながらサンタクロースを待った子どもの頃のことだったり、記憶の端の方で流れているホームアローンのことだったり。未だにサンタクロースは見たことないけれど、いると思っている。もしかしたら目には見えないかもしれないけれど。
あるいは、子どもの頃ではなくて恋人やら、元恋人やら、そういうことを考えたりするかもしれない。家族のことを考えるかもしれない。わざと小沢健二のLIFEなんかを流してみたりするのかもしれない。
寒くて、寂しくて、街が明るくて、だけれども一人で歩いている人は、例えばこれから帰って待っている誰かのことを考えている。もう会えなくなってしまった誰かのことを考えている。これをプレゼントしたら喜ぶだろうなと、また誰でもない誰かのことを考えている。
冬は好きでも、雪はあまり好きではない。小学生の時、部屋でゆっくり大河ドラマの録画を観ていたら、雪が積もっていて、田中くんが誘ってきた。自分はなんとなく外へ出て、雪だるまなど作っていたら、案の定手や足が痒くてたまらなくなり、帰ろうが風呂に入ろうが新撰組最終回の余韻を楽しむどころではなくなった。そのせいで苦手なのかもしれない。
あるいは、中学生の時、今度こそ手を痒くしてなるものかと息巻いてひっそりと歩いていた私に、帰り道興奮した城田くんがひたすら雪を投げてきたせいか。服の間に入るほどで、滅多に怒らないのに早歩きして先に引き上げてしまった。凶器を投げてくる城田くんが楽しそうなのも癪に障ったのだろう。
大学受験の時など、例によって悩まされ、靴下は濡れるわ、または電車は止まり開始はおくれ、ひっそりとひっそりと歩き精神をすり減らしたせいで良い結果がなかったのだと確信している。もうこのような思いはするまいと前日にビジネスホテルに泊まった時も、覚えているのは英単語や歴史の年号どころか、部屋のラジオで聴いたクロマニヨンズのメロディーばかりで同じ結果だったのだけれど。
まぁ、そのような思いは置いておくとしても、ささやかな寂しさや、浮かれている中一人で歩いたり、そういう人を見ているのが好きな自分にとっては、雪は冷た過ぎるというだけでなく、どうも華やか過ぎる気がする。わー雪だ、と騒いでみるほどまっすぐに生きてもいないし、そのようなものも眩しすぎると思ってしまう。スポットが雪そのものにあたってしまうような気がして、なんでもない冬の景色とは別のものとなってしまう。それよりは華やいでいる中で誰かがそこにいない誰かを考えているのがとても好きなんだと思う。
もう冬が終わってしまう。大好きな季節が終わってしまう。ここから半年以上も何を楽しみに生きればいいのかなんて思ってしまう。この冬からなにかを持っていきたいのにと思う。寒い中芸劇の前で集まって、何時間もウイスキーだけで暖をとったことやら、寒い寒いといいながら上着も着ないで、自動販売機のホットドリンクだけ買って帰ったこととか、風がびゅうびゅうと吹いているのに、一駅歩こうと足をすすめ、ずーっと駅の間を往復したこととか、など。多分今年も雪は降ったのだろうし、確か降ったはずだが、好まないせいかあまり覚えていない。例えば、雪が降ってきて誰でもないかもしれない誰かとそれを見ながら、次の冬もこんなふうにまた雪の降るのをみたいなと思う瞬間があれば、次の冬までそれを楽しみに生きて行けるのになと思う。