めも

エッセイよりは酷い殴り書き

日記

大学の研究で若者論などの本を読みあさっている。若者論のブームは過ぎても、そしてまだ若者論は続く。
近頃はまた、ある種「ゆとり世代」と言われる若者たちに共通して流れる何か眼に見えないものを、とらえようとしている研究も多いのかもしれない。
どうやら若者たちの間では、何か具体的なものに対するはっきりとした問題より、まるで芥川龍之介が云ったような「ぼんやりとした不安」を感じている人が多いのだという。
幾つまでを若者と呼ぶか、果たして自分は知らないが、きっと私の左右の足のどちらかくらいは、まだとっぷりと若者というものに浸かっている。同時に、その「ぼんやりとした不安」というものを感じていたりもする。それは、なんとなく世代に共通に流れる空気のようなものにも思えなくもない。
人は、いつかは大人になる。いつまで経っても気持ちは子供のまんまだとしても、必ず若さを失ってゆく。歳をとってゆく。幾ら若者の定義が拡大していると言っても、40を迎えてもなお「若者」ということはないだろう。
自分も、いつかは若者なんて言えなくなる。いやむしろ、もしかしたらもう言えないのかもしれない。ただ、なんとなく、20を少し超えたばかりのこの時に、まだ自らの若さをなんとなく感じるこの時に、この「ぼんやりとした不安」について、なんとなく口に出してみようと思った。言葉にまとめてみようと思った。自分のそれが、果たして若者として一般性を持つかはわからないが、あるいは若者論のいうところの「ぼんやりとした不安」に、本当に該当するかわからないが、記してみたいと思う。だからこれは、自分自身の文章であるということに意味をもたない。そうではないか。ただこれは日記なのだけれど、でもこれは例えばあと10年経った時に、もしくはもっと経った時に、「22歳の頃はこんな風なぼんやりとした感覚を感じていたな」と振り返るためのものだ。あるいは、この時に、こんな風に考える若者がいたということを書くにすぎない。

大学3年の7月、何を選択するにも「将来」「未来」というものがちらつく。それは決して重大な問題ではなく、いや時に重大な場合もあるのだけれど、どうせなら、考えておいたほうが良いかな〜、程度の軽い気持ちである。
サークル活動に勤しむ時「どうせなら面接で話せるようにしたいな」ゼミの研究テーマを選ぶとき「どうせなら自分の問題意識と強く結びついたほうがいいな」飲みに行くとき「今のうちにこの人には会っておこう」遊びを決めるとき「旅行に行くなら今だな」
人は感覚で生きていくタイプと、理屈で生きていくタイプがいるという。自分が感覚的だと思うときも理屈っぽいなと思う時もあったが、最近思うのは、自分は極端に行動力がないということ。それ故、物事は感覚で判断するけど、それを自分の中で理屈で裏付けて初めて、行動できるということ。
何をするにもなんとなく「将来」平たく言うと「就職活動」につながっている今、自分は自分自身がなんとなく「やりたい」と思うことの裏付けや理由づけを探していた。
「やりたい」と思えることをやりたいのは何故だろう、とか、それを捨てて安定したものを選んだほうが良いのか、とか悩んでいる時、自分の思考は「幸せってなんだろう」「人生で為すべきことはなんだろう」というところまで迷い込んでいた。
なんとなく、生まれたからには社会に貢献したかった。と言っても「人の命を救いたい」とか「積極的にボランティアをしたい」ということではなくて、何かの役に立ちたい、くらいのぼんやりとしたものだった。
それは決して正義感とか、そういうすてきなものによってのことではなくて、むしろ自分自身の人生に、誇りを持ちたいということによってのことなんだと思う。
自分は何も成功したことはない。学歴もないし、履歴書の資格に胸を張ってかけるものもない。相手もそう思ってくれるような大親友がいる自信もないし、部活一つとっても、最後まで続いたことがない。花をいれる花瓶もないし、嫌じゃないしかっこつかないし。
だけど、少なくとも自分の人生はこれまで、決して不幸ではなかった。毎日不自由なく食べてこられた。大学まで通えた。気づいてないだけかもしれないけど、誰かに凄く嫌われたり憎まれたりしないで生きてこられた。
そういう環境的なものは別にしても、幸せだった。なぜかというと、20年少し生きてきて、嫌な人にほとんど出会わなかった。今まで忘れてしまった人のほうが多いのかもしれないけど、出会った人はみんなとてもいい人だった。すてきな人ばかりで、少し考えるだけで胸がいっぱいになってしまうような人ばかりな気がする。そういう人たちから、色んなことを教えてもらった。それは言葉だったり、生き方だったり、考え方だったり、単純に素敵な時間だったり。もっとこう、言葉にできない何かだったり。あるいは、音楽や、映画や、物語だったり。色んな人から、色んな素敵なものをもらって生きてきた。
そういうものに触れ合って、受け取って、積み重ねて、自分は自分自身を作っている。自分自身の価値観を、考えを更新し続けている。例えば単純なことでも、友達の頑張る姿と考え方を見て、触発されて自分も変わったり。自分のことは好きではないけれど、そうやって作ってきた考え方とか、ものの見方にはほんの少し、誇りを持っている。
資格も、技術も、才能も、残念なことに持ち合わせていないけれど、唯一、私はこうやって私自身が生きてきた時間を持っている。出会ったひとが作ってくれた歴史を持っている。それは勝手に、自分の中で一つのプライドになっている。
そうやって私の中にある時間は、きっと自分にしか出来ない何かを作ってくれている。きっと私の人生でしか言えない言葉や考え方がある。仕事がある。いや、それが他の誰かにも出来ることだってきっといいのだ。ただ、せっかく自分が貰ったきたなにかを、社会に還元したいのだ。生きてきて、せっかく自分が受け取った素敵なものを、ただ自分の中に抱えて死んでいくのはあまりにもかなしいし、勿体無いとおもう。素敵な誰かが自分にしてくれたように、同じように何かの役に立ちたかった。
それは社会そのものに対してでも良かったし、もっと小さく誰か一人のためだけでも良かった。ともかく誰かを今より幸せにするためにつかいたかった。
社会に対してなら、それが成し得る仕事に就きたかった。何の仕事をしても、少なからずそれは実現できるのだろう。でも、ほんの少しでも無駄にしたくなかった。ましてや、一生かけて従事するかもしれない仕事ならなおさらである。そこでも素敵な出会いをして、それも伝えていけたらなおのこといい。仕事をして、お金を貰うことも大事。でもそれは社会貢献に対する対価だと思っている。社会貢献はなにをしてでも成し得るのかもしれないが、出来ればその誇りをそれに活かしたかった。自分が精一杯仕事をすることで、誰かを幸せにできることがとても大事な気がしていた。でもそこに辿り着く道が見えずにいた。
それから、なんとなく自分は自分自身に対して、突き動かすものがないような気がしていた。なんとなくなりたい何かはあった。自分が今まで出会った誰かのように、もっと素敵になりたかった。けれど、ここまで生きてきて出会った人とか、なった自分になんとなく満足はしているし、お金や家、車や地位、素敵な家具、好きな小説を読むための時間などはあったほうがいい、とは思うけれど、別に絶対必要なものじゃない。少なくとも、自分自身がそれを得るためにまっすぐ進むためには、なんとなく今が足りている。欲しいものはいくらでもあるけど、欲望に突き動かされるのはもっと嫌だった。自分のために成し得たいことはないような気さえした。なんとなく、楽なほうへ楽なほうへ流れていくような気がしていた。
もしも、この人しかいない、というような取り替えられない人に出会えて、なんとなく自分もそう思ってもらえて、その人の幸せのために生きていけたらどれほど素敵なことだろう、なんて考えていた。そうすると自分の考えることは急に変わる。仕事なんてなんでもいいし、お金なんてもらえるだけ欲しい。今まで受け取ってきたすてきなものがもしあるのなら、それは仕事でもなくてその誰かをしあわせにするためにつかう。誰か一人のしあわせためだけに、自分の何かをつかえること以上のしあわせもまた、ない。けらけら笑って楽しそうな誰かを想像できるなら、欲望に突き動かされるのはとても素敵なことに思える。
けれど、今まで生きてきて決して取り替えられない人に多分、出会っていないし、長く関係が続いた人もいない。とてもとても素敵だな、と思う人はいても、そういう人ほど気づかないうちにさよならすることを私は知っている。放り投げられたように取り替えられない人が現れるんじゃなくて、少しづつ、お話したり泣いたり笑ったりする中でそうなっていくこともわかっている。でもそうやって他人と触れ合う前に、こそこそっと逃げ出してしまう自分がいるなんてこともどこかで思っている。特別な何かになれなくても、素敵な人は自分の人生には沢山いて、その人を少しでも元気にしたいって気持ちもなくはないけど、それはなんだか傲慢で寂しくなる。素敵な人とはこれが最後だって知らないまま「また来月あたり飲みましょうね」とかいうのが今生の別れになるかもしれないなんて思っている。運よく仲良くなって特別になっても、その大体はさよならだってなんとなく感じている。
きっと自分は、幸せって何なのかだってなんとなくわかっている。それがひとつじゃないことも、手に入れる方法さえもひとつじゃないこともわかっている。だけどそれがどうしても手に入らないんじゃないかって気もちになって、でもそれでもそれなりに生きていけることもわかっていながら、でもなんとなく「ぼんやりとした不安」を抱えている。というより途方に暮れている。未来はニュースが言うよりも真っ暗じゃない気がしているけれど、思い描くようなものじゃないものは嫌で駄々をこねている。七夕のお願いのつもりでないものねだりをしている。